皿山(読み)さらやま

日本歴史地名大系 「皿山」の解説

皿山
さらやま

かみ山ともいう。文政一一年(一八二八)藩の仕入銀により油屋忠左衛門を窯元とし、伊予砥部とべ(現愛媛県伊予郡砥部町)より職人を招いて伊万里風の陶磁器業が興された。藩の保護のもとに主として藩御用を勤め、同一二年より江波皿山係の任免も行われたほか、藩主や重臣今中相親らの視察もしばしばあった。瓦焼も行われており、同年には船入ふないり村・江波えば村、よし(現呉市)の三ヵ所で製する瓦をさらに増産して、伊予菊間きくま(現愛媛県越智郡菊間町)よりの瓦の移入を押えようとする計画も進められたが、安政(一八五四―六〇)頃までは続かなかった(新修広島市史)ようで、幕末には陶器類・瓦ともに休職していた。

皿山
さらやま

[現在地名]北茂安町大字白壁字皿山

白石しらいし丘陵の谷に位置する製陶地。皿山陶業の起源は不詳であるが、享保年間(一七一六―三六)以来、この地の住民が土地に産する粘土で農業のかたわら副業としてわずかの素焼物を焼いたのが始まりともいう。

文化三年(一八〇六)邑主(白石鍋島家)は佐賀本藩御用窯の大川内おおかわち(現伊万里市)から藤先百十という陶工を呼び寄せ白石で御用焼を命じた。百十は種々改良を図り、弘化三年(一八四六)この土地一帯に産する「ごこくさん」に天草石を混じて白磁に似た白罅しろにごし焼を創製した。

皿山
さらやま

[現在地名]鳥栖市牛原町

河内こうち山の麓、四阿屋あずまや神社裏側の陶巧とうこう山にある対馬藩の藩営窯跡地一帯を皿山といい、登窯跡・廃棄物堆積がみられる。明和七年(一七七〇)有田の町人某がここに皿山を仕立てたいと田代代官所に願い出、許可になったが操業までに至らなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報