白旗城跡(読み)しらはたじようあと

日本歴史地名大系 「白旗城跡」の解説

白旗城跡
しらはたじようあと

[現在地名]上郡町細野

千種ちくさ川東岸の標高四四〇メートルの白旗山に築かれた中世の山城跡。赤松あかまつ城とも。国指定史跡。「播磨古城記」「赤松盛衰記」、赤松大系図(法雲寺蔵)などによると天永二年(一一一一)に播磨の守護職(国司)に任ぜられた源季房が加古郡に下向したおり、毎夜山頂に白旗があるという夢を見、白旗のような雲がたなびくという赤松庄の高山に城を築いたのが始まりとする。しかし実際の築城時期は南北朝期と考えられる。「太平記」巻一六によれば、建武三年(一三三六)一月、赤松円心(則村)は足利尊氏追討のため播磨に侵攻した新田義貞軍を白旗城で迎え討っている。当城は「四方皆嶮岨ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵粮モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠」っていたために、義貞は城を落せなかったとされている。延元元年(一三三六)四月二三日の藤原兼宗軍忠状写(萩藩閥閲録所収文書)には「赤松城大手南面城戸口致合戦」とあり、この赤松城は白旗城をさすと考えられる。同年五月一八日には新田勢が退却したようで(建武三年五月二五日「足利尊氏書下案」深堀文書)、代わって九州より上洛した尊氏は、この際下揖保しもいぼ(現龍野市・揖保川町)地頭島津忠兼らに赤松城警固を命じた(同年七月二七日「島津忠兼軍忠状」越前島津家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「白旗城跡」の解説

しらはたじょうあと【白旗城跡】


赤松氏城跡(あかまつししろあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報