畑中村(読み)はたなかむら

日本歴史地名大系 「畑中村」の解説

畑中村
はたなかむら

[現在地名]溝口町畑池はたいけ

野上のがみ川中流に位置し、北は二部にぶ宿。古くは足子あしこ村と称したという(日野郡史)。当村から南下して津地つち峠に至る道は中世の富田とだ街道とされ、南西へ野上川を遡上し、上代かみだい村から矢倉やくら峠を越えて黒坂くろさか(現日野町)に入る道は備後路である。地内の大歳下おおとししもに文政一〇年(一八二七)建立の道標があり、「従是右二部、左かみ代」とある。拝領高は二二六石余、本免は五ツ五分。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高三一三石余、家数三八・人数一八七、馬二・牛一九、鍛冶屋一に運上銀六〇匁が課されていた。

畑中村
はたけなかむら

[現在地名]遠野市松崎町白岩まつざきちようしらいわ松崎町光興寺まつざきちようこうこうじ

てんヶ森(七五六・一メートル)の南麓、早瀬はやせ川がつくる扇状地性沖積段丘に位置する。南は小平おたいら村、北は光興寺村。建保年間(一二一三―一九)阿曾沼氏が光興寺の護摩堂ごまどう山に横田よこた城を築城した頃、畑中およびその周辺に市を開いた。のちに一日市ひといち町とよばれ、天正年間(一五七三―九二)阿曾沼氏が鍋倉なべくら城に移るとともに移転し、跡地は元一日市もとひといち町といわれた(遠野史叢)

畑中村
はたけなかむら

[現在地名]福知山市字畑中

和久わく川の上流に位置する。東は石場いしば村、西はだん村、南は樽水たるみ村、北は北山きたやま村。福知山藩領。「丹波志」に「高五百九十九石壱升三合 家数九十五六軒」とある。

中世は豊富とよとみ庄の地。「丹波志」は村名の肩書に「古豊富村」とし、同じく古豊富村に含まれる北山村の項に「此谷ノ筋ヲ豊富ト云、谷奥ニ百二十余年以前迄豊富村ノ称村有リ、今分テ五ケ村ト成ル、此辺拝師郷ナルヘシ、今ハ豊富郷ト云」と記す。

畑中村
はたなかむら

[現在地名]青梅市畑中

青梅村の南西、多摩川右岸に位置する。慶長一八年(一六一三)二月、新開地の新町しんまち村への入村を求める幕府代官回状(「仁君開村記」吉野家文書)の宛先に当村名がみえる。慶長年間の閻魔堂棟札にそま長淵ながぶち郷畑中村と記されていたという。田園簿では田一七石余・畑一六三石余で幕府領。寛文八年(一六六八)の三田領畑中村検地帳(土方家文書)では高一四二石余。元禄郷帳では高一四七石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では幕府領一四二石余。

畑中村
はたけなかむら

[現在地名]田舎館村畑中

浅瀬石あせいし川が形成した河岸段丘上にあり、東は田舎館村、北は八反田はつたんだ村、西は大曲おおまがり村に接する。弘前と黒石を結ぶ街道に沿い、北と西へ道が分岐する。

天和四年(一六八四)の書上帳の絵図によれば、畑中は本田舎館もといなかだて村とあり、支村に八反田がある。家数二八、うち八軒は庄屋御蔵とも、九軒は給地、一一軒は支村、ほか三軒裏屋とある(数字は史料どおり)。用水として枝川えだがわ堰・前川まえかわ堰・大曲堰・しぶ川があり、地名として上野・樋口・八反田袋・南田・数馬田・すまき袋・てうてん・寛妙寺・阿弥陀やしき・まつはし・おちこ森・鯨森・宮ノ崎・三所の宮・古館・行人塚・於ヶ袋・びんふら袋などが八反田村分と混在して記される。

畑中村
はたけなかむら

[現在地名]川島町畑中

大塚おおづか村の南に位置する。古くは八ッ林やつばやし村のうちであったが、慶安年間(一六四八―五二)に同村より分村したという(郡村誌)。田園簿では田高一五一石余・畑高四四石余、旗本酒井領。その後、川越藩領となり、秋元家時代郷帳では高二八三石余、ほかに検地出高として高一六九石余がある。反別は田方四一町六反余・畑方一二町余。以後の領主の変遷は谷中やなか村に同じ。中山道桶川宿の加助郷を勤めていた(同文書)

畑中村
はたけなかむら

[現在地名]清水町畑中・卸団地おろしだんち

戸田とだ村の南、さかい川の右岸に位置し、いずみ郷六ヵ村の一つ。元禄一一年(一六九八)旗本秋山領となり、同領で幕末に至った(国立史料館本元禄郷帳・「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳など)。寛永改高附帳では田高一三六石余・畑高五石余。延宝二年(一六七四)の検地では高一五三石余・反別一二町七反余。薪秣刈場は箱根はこね山にあり、歩札を一枚所持し、毎年山手役米七升ずつを三島御殿場に納めている。ほかに免許札を二枚所持していた(贄川家文書)。元禄七年から沼津宿の定助郷を勤め、用水はまる池懸りで、宝永七年(一七一〇)に池浚いを実施している。

畑中村
はたなかむら

[現在地名]八木町字諸畑もろはた

諸木もろぎ村の西に位置する。南は野条のじよう村、西は舟枝ふなえだ村・室橋むろはし村、北は上世木かみせき(現日吉町)。丹波国吉富庄絵図(真継梶之助家蔵)には諸木村に並んで「(ママ)村」が記されるが、畑中村との関係は不明。あるいは誤記か。諸木村の枝村という(丹波志桑船記)。初め幕府領であったが、元禄一一年(一六九八)から園部藩領となった(船井郡誌)。幕末の家数は四〇、人口一八一(「口丹波風土記」所引園部藩記録)

畑中村
はたなかむら

[現在地名]近江八幡市加茂町かもちよう

西出にしで村の北にあり、畠中とも記す。江戸中期には東・西の畑中村二村となり、両村ともに加茂九ヵ村の一。永正九年(一五一二)一一月一八日の作職売渡状(伊藤文書)に「加茂畑中」とみえる。正保郷帳では高四九二石余、うち山城淀藩領二九二石余・下総古河藩領二〇〇石余。慶安二年書上によると田四〇七石余・畑屋敷四三石余・永荒四二石余。元禄郷帳では旗本大給松平(小三郎家)領、高五〇七石余。以後同領で幕末に至る。安永四年(一七七五)加茂神社末社若宮八幡神社の棟板(加茂神社所蔵)に「東畑中村庄屋」とみえることから、この頃には東・西の畑中村二村に分村した模様で、天保郷帳には東畑中村高三五三石余・西畑中村高二五八石余の二筆となる。

畑中村
はたけなかむら

[現在地名]松山市平井町ひらいまち

松山平野の東平坦部に位置する農村。東と北は苅屋かりや村、西は窪田くぼた村、南は水泥みどろ村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)久米くめ郡の項に「畑中村」とある。初め旗中・端奈加といったという(新編温泉郡誌)

「日本地理志料」によると、古代には久米郡余戸あまるべ郷に属する。

畑中村
はたけなかむら

[現在地名]大分市畑中

豊饒ぶによう村の南に位置し、大分川左岸の七瀬ななせ川が合流する地点の対岸に広がる。正保郷帳に畠中村とみえ田高二二石余・畑高一九六石余、早田わさだ庄に所属。水損所とあるように場所柄洪水の被害が多かったと考えられる。領主の変遷は駄原だのはる村に同じで、里郷古国府組。

畑中村
はたけなかむら

[現在地名]丸岡町畑中

丸岡城下の東方、与河よこう村の東に位置する農村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図や正保郷帳では田屋たや村に含まれていたが、元禄郷帳で田屋村の枝村として独立、村名が記される。総石高は一五三・八八七石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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