田神社
くしだじんじや
[現在地名]博多区上川端町
主祭神は大幡主神・天照大御神・素戔嗚命で、旧県社。現在は境内西方を那珂川(博多川)が流れ、河口から隔たっているが、これは近世以降の姿とみられ(福岡博多近隣古図など)、それ以前は那珂川河口近くに位置し、博多に深く入り込む入海に面していたと推定されている。櫛田社(中殿)・天照大神宮(左殿)・祇園社(右殿)からなり、江戸時代は博多の宗廟・産神として崇敬された(「続風土記」など)。
〔創建〕
「続風土記」は櫛田社は天平宝字元年(七五七)の創建、祇園社は天慶四年(九四一)藤原純友追討の際に小野好古が勧請したとし、天照大神宮の創祀は不詳とする。また初め社殿は南面し、社前を大宰府往還路が通っていたという。暦応三年(一三四〇)四月二七日の櫛田宮鐘銘(東海一集)には持統天皇の時代の創建とある。永仁三年(一二九五)一〇月四日の鎮西奉行使者注進状写(肥前櫛田神社文書/鎌倉遺文二五)によると、博多櫛田神社に置かれている剣は弘安七年(一二八四)託宣により「本宮神埼櫛田宮」からモンゴル征討のため送られたとあり、当社は肥前神埼庄の鎮守櫛田神社(現佐賀県神埼町)を本宮としていた。同庄は京進する年貢などを背振山越で那珂川水運を利用して博多津にも運んでいたと推定されている。また同庄には平安時代末期に平忠盛が進出し、子の清盛・頼盛の時代には日宋貿易の独占を企図して大宰府をはじめ博多周縁を平家の支配下に置いていたと思われることから、清盛・頼盛の時代に当地に神埼櫛田宮の分霊が勧請されたとの見方がある。
〔中世〕
前掲櫛田宮鐘銘によると、鎮西探題北条随時は当社を崇敬して社殿を再興、祭礼および祭器などは当社を信仰する博多の人々が復旧、梵鐘も元応元年(一三一九)七月に鋳造されている。しかし正中―建武(一三二四―三八)の大乱期に再び被災したといい、正慶二年(一三三三)三月一三日には鎮西探題討伐のため挙兵した菊池武時(寂阿)らが「松原口・辻堂」から押寄せ、「早良小路」を下って「櫛田浜口ニ打出」ている(博多日記)。当社は海浜に近く、また鎮西探題館が近隣に所在していたようである。なおこのとき寂阿が櫛田社の前を通ろうとしたが、神意によるものか馬が進めなくなり、寂阿は怒って神殿に矢を射かけて通ったといい、このことがのち寂阿らに凶事をもたらしたという(太平記・九州軍記)。一方で建武三年五月一五日足利尊氏・直義は櫛田の宮が二人を守護するとの吉兆を得たとされており(梅松論)、この頃当社は足利方に与同していたのであろう。
田神社
くしたじんじや
[現在地名]大門町串田
芹谷野台地北端に鎮座。祭神は建速須佐之男命と妃神櫛名田比売命。「延喜式」神名帳記載の射水郡一三座の一。旧県社。東大寺開田図のうち天平宝字三年(七五九)一一月一四日の礪波郡石粟村官施入田地図(奈良国立博物館蔵)、神護景雲元年(七六七)一一月一六日の射水郡鹿田村墾田地図(正倉院蔵)に櫛田神田がみえ、これ以前から祀られていた。享保五年(一七二〇)の神主山本対馬編の社記を基にした「越中宝鑑」は「大同類聚方」を引き「斎主武内宿禰」とし、「朱雀帝の朝、平将門追討の勅願ありて位田を納められ」と記す。貞観一八年(八七六)七月一一日櫛田神は従五位下を授けられた(三代実録)。天喜元年(一〇五三)八月の「越中守源頼家歌合」では櫛田杜が題に取上げられ、歌枕にもなった。
田神社
ひえだじんじや
[現在地名]太子町鵤
鵤集落北部に位置する。祭神は稗田阿礼命・素盞嗚尊・聖徳太子。旧郷社。斑鳩寺記録(斑鳩寺文書)では祭神は太子妃膳大娘。嘉暦四年(一三二九)四月日の鵤庄絵図(法隆寺蔵)には社名と建物が描かれる。応永二五年(一四一八)鵤庄の名主・百姓らは三ヵ条の要求が領主の大和法隆寺に聞入れられなかったため、九月一五日の夕方当社で集会ののちに逃散した(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)。戦国期には数年間破損していたため、永正一八年(一五二一)宿村(現龍野市)の円山新兵衛尉利真が中心となり修造が行われた(同文書)。
田神社
くしたじんじや
[現在地名]桑名市島田
島田の南部丘陵地上にある。例祭日一〇月一二日。「延喜式」神名帳の朝明郡二四座のうちにあるが、島田村は江戸時代には員弁郡に属しており、朝明郡との郡境にある。龍熙近の「神名帳考証」は「今島田村産神、蔵王権現此乎」としており、諸説ともほぼこの説に従っているが、埋縄村(現三重郡朝日町)説(「勢陽雑記拾遺」岩瀬文庫蔵)もある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報