田原郷(読み)たはらごう

日本歴史地名大系 「田原郷」の解説

田原郷
たはらごう

室町時代からみえる郷名。「和名抄」にみえる都留郡多良たはら郷の後身とみられ、現都留市の桂川中流域一帯に比定される。応永三三年(一四二六)八月一一日の関東公方御教書(江戸文書)によると、江戸大炊助憲重は「甲州田原陣」での忠節を賞せられている。関東公方足利持氏は意に従わない武田信長追討のため一色持家を派遣し、持家は甲斐に進軍して同年八月一五日に大月に陣を構えたから(同年九月日「善波憲有軍忠状写」諸州古文書)、信長の勢力下にあった田原陣へ持家軍が攻め込んでの戦いであったと考えられる。その結果信長は降伏し、鎌倉府に出仕している。なお建暦三年(一二一三)五月七日、和田義盛の乱による論功行賞により志村次郎に「坂東田原」が与えられたが(吾妻鏡)、これが古郡氏の旧領だったとすれば当郷をさす可能性が高い。

田原郷
たはらごう

「和名抄」にみえるが高山寺本・刊本とも訓を付していない。山城国綴喜郡の同字の郷に「多八良」の訓があり(同書刊本)、安房国長狭郡の田原郷は「多波良」と訓じられる(同書)

当郷は文献に徴することができないが、大堰おおい川の支流の一つに田原川がある。源流は現北桑田郡にあり、現船井郡日吉ひよし町の中央部を貫流して殿田とのだ(現日吉町)胡麻ごま川と合流して大堰川に注ぐ。田原川下流域の殿との(現日吉町)ほか四村は明治六年(一八七三)田原村となり同二二年しよう村となっている。

「延喜式」神名帳に「多沼神社」(一本には多治神社)があり、殿に鎮座する多治たじ神社に比定される。

田原郷
たわらごう

「和名抄」所載の郷で、高山寺本などでは多波良と訓じ、名博本ではタハラとする。「日本地理志料」は現鴨川市太田学おだがく池田いけだ京田きようでんの辺りをかつて田原庄と称したという「安房国誌」の説を引用し、現鴨川市北小町きたこまち・南小町・太田学・京田から上小原かみこばら・下小原にかけての加茂かも川中流域に比定している。「大日本地名辞書」もほぼ同様。長狭平野の河岸段丘面や微高地はその大半が水田化されているため現状では遺跡は確認されがたいが、同市京田には金塚かなづか古墳(円墳)がある。

田原郷
たはらごう

「和名抄」刊本は「多八良」と訓ずる。

長保三年(一〇〇一)四月八日付禅定寺領田畠流記帳(禅定寺文書)に「杣山壱処 在綴憙郡田原郷字山田 合壱仟町」としてその四至に「限東近江国堺綾槻大尾 限西公田 限南国分寺山大譲葉岑 限北大津尾谷」とあり、田原郷内に一千町歩に及ぶ禅定ぜんじよう(現宇治田原町)領杣山や墾田・家地があったことが知られるとともに、「男石里」「水口里」の里名が検出される。このほか古代の田原郷内には大炊寮の管理する御稲田が置かれており(年欠「山城国田原郷山司陳状断簡」同文書)、また藤原頼長の所領もあった(「兵範記」保元二年三月二九日条)

田原郷
たわらごう

「和名抄」諸本とも訓はないが、同書山城国綴喜つづき郡田原郷に「多八良」、安房国長狭ながさ郡田原郷に「多波良」の訓があるので、「タハラ」と読んだと考えられる。旭川の左岸沖積地を中心とする、現真庭まにわ落合おちあい町田原・古見こみ付近と推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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