生野代官所跡(読み)いくのだいかんしよあと

日本歴史地名大系 「生野代官所跡」の解説

生野代官所跡
いくのだいかんしよあと

[現在地名]生野町口銀谷

元県内もとけんないに置かれた江戸時代の幕府代官所の跡。初め奉行所、享保元年(一七一六)奉行所を役所と改め、奉行ではなく代官を置いた。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦のあと徳川家康は奉行に間宮新左衛門を任じているが、江戸時代を通じて二八代(奉行を含めると三八代)の代官が就任、享保年間には一〇万石以上の待遇とされた。当代官所の職掌は年貢徴収など地方の事務、治安・裁判などの公事方のほか、鉱山の採掘・精錬・輸送など鉱山全般の管理を行う山方(銀山方)があった。その配下に手付・手代・書役・元締・加判があり、さらに土着の有力層で代々世襲の地役人から運上蔵役・直入役・見廻役・口役・銀山方見習などを任命したという。地役人は寛永一〇年(一六三三)に九一人余で、延享二年(一七四五)以降は運上蔵役五・口蔵役六・見廻役二一・運上蔵米蔵総門番一や口役らで五四人余と定められた(「銀山秘録」吉川家文書、「生野銀山付御証文写」木村家文書など)。村方には庄屋・年寄・百姓代が置かれたが、生野銀山廻の町方には年寄・加奉・年行事が設けられていた。加奉は初代の奉行間宮新左衛門が大坂冬の陣で生野下財により大坂城外堀の石垣を掘削させて水抜きに成功、その功を賞して加奉行・帯刀としたが、これを遠慮して加奉のみをいただいたことに由来するという(「広谷庄生野銀山廻り加奉役由緒書」藤垣家文書、「生野史」)

寛永一六年頃の生野奉行は但馬国内の朝来郡養父やぶ郡・気多けた郡内の三万九〇一石余を管轄したが(「国絵図」石川家蔵)、その後に数度の変遷があり、明和元年(一七六四)以降の状況を示す但馬国両代官所支配村々高帳(出石神社蔵)では朝来・養父・出石いずし・気多の四郡で高三万四千五〇六石余。天保六年(一八三五)の支配地は但馬国内の管轄地は朝来郡・養父郡出石郡・気多郡内の一五二ヵ村・高三万四千五〇六石余、美作国勝北しようぼく郡・東北条とうほくじよう郡・西北条さいほくじよう郡内の四七ヵ村・高二万二六石余があり、別に当分預所として播磨国神西じんさい郡と多可たか郡内一三ヵ村・高二千四一四石余、美作国吉野よしの郡と勝南しようなん郡内三二ヵ村・高八千九一〇石余があった(「留書雑書」生野史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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