生地村(読み)いくじむら

日本歴史地名大系 「生地村」の解説

生地村
いくじむら

[現在地名]黒部市生地

黒部川扇状地の末端にあり、東は飯沢いいざわ村・経生地新きよういくじしん村、西は富山湾に面する。伝説によれば、新治にいはり村は現在の生地よりもはるか沖合にあったが、文治元年(一一八五)八月一〇日大津波が起こり、新治村全体が海中に沈没してしまった(久寿年間という説もある)。その被害は新治にいはる神社・全明ぜんみよう寺をはじめ人家三七〇余、死傷者は無数であったという。潮が引いてから荒地を開墾して人々が定住した。地名の由来は生れた地に帰るとともに、新たに土地が生れたという意味を取って新治を神社の名とし、村名を生地と改称したという(生地史考)。延徳三年(一四九一)越後に下向する冷泉為広は「越後下向日記」同年三月一六日条に「クロベノ内 イクシ海」と記している。慶長一七年(一六一二)前加賀藩主前田利長が生地村前名に渡した新川郡浦方油役請取状(加越能文庫)や、ハマボウフウ、タイなどをくれて満足であるという書状がある(越中古文書)

正保郷帳では高一三石余はすべて屋敷方。寛文一〇年(一六七〇)の小物成は地子銀四二六匁・浦役一貫二六一匁・野役五一匁・鮭役二一〇匁・鱒役三四匁・猟船櫂役七九五匁・外海船櫂役八四匁・鰤役一四四匁七分・間役一匁八分であったが、のちに鰤役・間役は退転し、櫂役銀は年によって増減があった。

生地村
いくじむら

[現在地名]杵築市南杵築みなみきつき

杵築城下西方にあり、台地上の田畑を耕し、西は断崖、南は昔は海、現在は川となる。鎌倉期と推定される九月八日の八坂下庄領家御教書(生地文書)に「薬師丸伊久地山野内、屋敷□畠塩浜等事」とある。小倉藩慶長人畜改帳では生地村とみえ、家数一九・人数四六(うち本百姓五、名子・男子・こしぬけ・小者一六)、牛七。小倉藩元和人畜改帳では高七五石余、家数一四・人数四四(うち庄屋一・百姓一三・名子四)、牛九。元禄郷帳では高六一石余。文久三年(一八六三)の田畑根付目録(工藤家文書)では田五町一反・畑七町五反。宗近むねちか村とともに宗近組となり、宗近村庄屋の支配を受け、村役人は弁差一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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