瓜生村(読み)うりゆうむら

日本歴史地名大系 「瓜生村」の解説

瓜生村
うりゆうむら

[現在地名]三島町瓜生

現町域の北東端、くろ川左岸の沖積地にある。西は藤川ふじかわ村、南は黒川を挟んで下河根川しもこうねがわ村。吉河よしかわ庄に属した。年未詳の一〇月四日の足利尊氏御教書写(本郷文書)によると、宇都宮氏綱に対し「吉川庄内大津・中条生」を本郷左衛門大夫に渡すよう命じている。宇都宮氏の宿臣芳賀駿河守の延文二年(一三五七)四月二六日の遵行状写(同文書)には「吉河庄内大津并生両条」を本郷弥五郎頼泰に渡したとある。慶長二年(一五九七)の上杉氏の知行宛行状(覚上公御書集)には、瓜生・中・新保しんぼ三ヵ村を合せた五〇〇石九斗余が上杉氏の給人福島掃部助の知行地となっている。

瓜生村
うりゆうむら

[現在地名]津幡町瓜生

宝達ほうだつ山の南方、大海おおみ川上流に注ぐ瓜生川の谷間に位置。能登国羽咋はくい郡に属する。当地は永光ようこう(現羽咋市)四世・能登総持寺二世の住持を兼ねた峨山韶碩の出身地である。「本朝高僧伝」に「釈紹碩、号峩山、姓源、能州瓜生田人」、「日本洞上聯灯録」に「姓源氏、本州羽咋郡瓜田人也」とみえる。韶碩は建治元年(一二七五)の生れとされ、貞治四年(一三六五)九一歳で没した。大正一四年(一九二五)誕生地記念碑が建立された。

瓜生村
うりゆうむら

[現在地名]浅井町瓜生

高畑たかはた村の南西に位置。南辺を川が西流する。北方に西にし池があり、北西部は小谷おだに山系の山地。縄文時代の瓜生元うりゆうもと遺跡・瓜生古墳群がある。「輿地志略」は海北屋敷跡について「海北善右衛門が宅地跡也といふ、屋敷の周りに惣堀等あり」と記す。寛永石高帳に村名がみえ、高四六二石余で山城淀藩領。元禄郷帳では甲斐甲府藩領、天明村高帳では幕府領だが、文政石高帳では再び淀藩領。

瓜生村
うりうむら

[現在地名]武生市瓜生町

日野川東岸に位置し、南は稲寄いなよせ村、北は上鯖江かみさばえ(現鯖江市)。「太平記」巻一九(新田義貞落越前府城事)に延元三年(一三三八)二月のこととして「後陣ニ高木ノ社ヲアテ、左右に瓜生野畔ヲ取テ」とみえ、また「高木・瓜生・真柄・北村ノ在家二十余箇所ニ火ヲ懸テ、狼烟天ヲ焦セリ」とある。南北朝時代に南条郡杣山そまやま(跡地は現南条町)に拠って南朝方を支援した瓜生氏の本貫の地と伝える。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今南西いまなんせい郡中に「瓜生野」として高一四四六・八六八石がみえ、正保郷帳によると田方一千三九五石余・畠方五一石余。

瓜生村
うりうむら

[現在地名]上中町瓜生・せき

熊川くまがわ村の西北、九里半くりはん街道北方の膳部ぜんぶ山西南麓に位置し、集落は瓜生・関に分れる。関集落の南端に通称関の大井根、すなわちきた川から水を引く堰があり、この堰から山沿いに北西に引かれたいねの川によって瓜生地域五ヵ村の水田が潤される。関には古くに九里半街道の関が設けられていたという伝えがある。

中世瓜生庄の中心地であり、建久七年(一一九六)六月日付若狭国御家人注進案(東寺百合文書)に載る生新太郎清正の本貫地と思われる。文安五年(一四四八)一〇月二日付の明通寺寄進札に「生馬場之宗善」がみえ、弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「百八十八文 瓜生村」とある。

瓜生村
うりゆうむら

[現在地名]相生市矢野町瓜生やのちよううりゆう

菅谷すがたに村の北、矢野川上流右岸の河谷平野と後背の三濃みのう山南斜面に立地する。同山を源流とする鍛冶屋かじや川が南下し、かみ村で矢野川と合流する。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(東寺百合文書)に「ウリウ」として畠一ヵ所四反とみえる。当地は同年一二月一四日の例名東方地頭分下地中分分帳案(同文書)にみえず、領家方に属したことがわかる。菅谷と合せて西奥にしおく村に比定する説がある。江戸時代の領主の変遷は下土井しもどい村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方一八二石余・畠方一二一石余、「草山有・新田有」とある。

瓜生村
うりうむら

[現在地名]金津町瓜生

北疋田きたひきだ村の南東にあり、丸岡まるおか城下(現丸岡町)より権世市野々ごんぜいちのの村を経て加賀国風谷かざたに(現石川県江沼郡山中町)に通ずる道に沿って、南北に細長く広がる。「朝倉始末記」の、永正元年(一五〇四)朝倉貞景と朝倉元景・加賀一向一揆との抗争を記すなかに「其勢一万八千人、陣取処ハ飯塚いヽづか・簾尾・頭破かしらはれ上引田かみひきだしも引田」とあるが、「頭破」は当地の字にあり、関係があるとも考えられる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「坪江上郷之東」に含まれると思われる。寛永元年(一六二四)以降丸岡藩領。

瓜生村
うりおむら

[現在地名]朝地町宮生みやお 宮生東みやおひがし

宮迫みやざこ村の南、大野川北岸にあり、南は大渡おわたり(現緒方町)。康永元年(一三四二)八月三日の志賀正玄譲状案(志賀文書)志賀しが村南方のうちの「下瓜宇」がみえ、相伝の所領である同所田畠等が正玄(忠能)から孫の普賢丸(氏房)へ譲られている。同日付の田畠屋敷目録案(同文書)では「下尾」は一段三〇〇歩・新田三段からなっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報