牛窓村(読み)うしまどむら

日本歴史地名大系 「牛窓村」の解説

牛窓村
うしまどむら

[現在地名]牛窓町牛窓

牛窓半島のほぼ全域をしめ、江戸時代までは北・東・南の三方を海に囲まれていた。おもな集落は半島の南側にあり、海に面して東西に細長く連続する。紺浦こんのうら綾浦あやうら中浦なかうら関浦せきのうら大浦おおうら(新田)などがあり、半島北側には師楽しらく錦海きんかい湾の奥には奥浦おくうら(村)がある。南には牛窓瀬戸うしまどのせととよばれる狭い海峡を挟んで位置するまえ島をはじめとしてあお島・島・くろ島の島々が浮ぶ。なお牛窓瀬戸は地元では唐琴瀬戸からことのせとともいう。当地は古くから瀬戸内海上交通の重要な港津として開けた。「鹿苑院殿厳島詣記」康応元年(一三八九)三月条に「六日、御舟いでて、うしまど、ま井のすなどにいたりぬ、まことや此うしまどといふ所は、むかしおきながたらしひめの御舟出のとき、けしかるうしの御舟をくつがへさむとしけるを、住吉の御神のとりてなげさせ給しかば、かの牛まろび死けるが島と成て、それよりうしまどといふ也けり、牛まろぶと書て、うしまどとよむとなむ聞侍しなり」という地名由来説話がみえ、「備前国風土記」逸文(本朝神社考)同工異曲の説話を載せる。「万葉集」巻一一に「牛窓の波の潮騒島響み寄さえし君は逢はずかもあらむ」の歌があり、「続日本紀」天平一五年(七四三)五月二八日条には、「新羅邑久浦」に「大魚五十二隻」が漂着したとみえる。「新羅邑久」は音が似ていることから師楽にあたると推定されている。西行の家集「山家集」には「うしまどの迫門に、海士の出で入りて、さだえと申すものをとりて、船に入れ入れしけるを見て」という詞書をもつ歌がある。

〔中世〕

一帯には牛窓庄・牛窓保が成立していたが、鹿忍かしの庄との関係も錯綜しており、実態は明らかでない。建仁三年(一二〇三)八月五日の北条時政書状案(東寺百合文書)に播磨国矢野やの(現兵庫県相生市)の公文以下所職名田畠等を知行している牛窓庄司六郎範国がみえる。応安七年(一三七四)一二月日の弘法寺免田畠注文(弘法寺文書)に、牛窓出作国衙方として小島本一段一〇代・浦里一段などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報