片田村(読み)かただむら

日本歴史地名大系 「片田村」の解説

片田村
かただむら

[現在地名]志摩町片田

先志摩さきしま半島の東部にあり西に布施田ふせだ村と接する。字切間きりま大莚おおむしろ島・乙部おとべ宮の谷みやのたに田尻たじりには弥生遺跡が、字大塚おおつかには直径二〇メートル余、高さ七メートル余の円墳が一基ある。「神鳳鈔」に「片田御厨」とあり、「外宮神領目録」では「片方御厨」とある。

近世を通じて鳥羽藩領で、英虞あご郡に属した。享保一一年(一七二六)村差出帳(徳川林政史蔵)によれば、高五六一・一三三石のうち浦役五石、水主米高一二三・九八五石が寛文四年(一六六四)より定引で、反畝不明の無地四・四九七石があった。おもな小物成は水主米四九・七五四石。

片田村
かただむら

[現在地名]長岡市片田町

長岡町の南方五キロ余、三国街道(現国道一七号)に沿って開かれた集落。街道の南に接して十日町とおかまち村、北方下条げじよう村を経て長岡町に至る。東は東山丘陵の村松むらまつ村に往来道が通じる。当村や近くの小島こじま新田・十日町村・高山向島たかやまむこうじま新田・牛池うしいけ村などの地は古くは志度野岐しとのき石坂いしざか郷に属したという。天正村名考(温古之栞)に「かた田四十九軒」と伝える。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高二八四石七斗余。

片田村
かただむら

[現在地名]秋田市金足片田

南流する馬踏まふみ(黒川)氾濫原にあって、小集落が点在する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二三一石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は「片田村 廿二軒」と記し、支郷の福田ふくだ村は「十八軒、横関村と云寛文六年御竿改め」で、その他に家数八軒の荒屋あらや村、七軒のやま村と散在する支郷の名を記す。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳に村高五三七石、文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」には「高五百四十石六斗、免五ツ五歩、田水沢川、家居六十七戸、人三百三十五口、馬八十頭牛三十頭」とあり、藩政期後半に著しい村高の増加がみられる。

片田村
かたたむら

[現在地名]吉川町片田

北は鳥越とりごえ村、南は山口やまぐち村に接し、東に吉川が流れる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外六方分片田村 中」とみえ、本納四五石五斗八升八合・縄高二一六石八斗三升、家七軒・二四人とある。正保国絵図に二七〇石余とある。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高三七八石九斗余。

片田村
かただむら

[現在地名]塩沢町片田かたた

塩沢村の北、東は竹俣たけまた村・竹俣新田、北は小栗山こぐりやま(現六日町)。正保国絵図に高二七〇石余とある。天和三年郷帳では高二六五石四斗余。宝暦五年(一七五五)村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田一七町八反余・畑二町八反余。

片田村
かただむら

[現在地名]谷田部町片田

栗山くりやま村西南、西谷田にしやた川西岸の舌状台地に位置。元和二年(一六一六)に谷田部藩細川氏領となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高は二三一・五一九六石。徳蔵とくぞう院は真言宗豊山派

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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