熊谷郷(読み)くまがやごう

日本歴史地名大系 「熊谷郷」の解説

熊谷郷
くまがやごう

現熊谷市の中心地域、荒川中流の左岸に比定される。平安期中頃のものと推定される武蔵国大里郡坪付(東京国立博物館蔵九条家本「延喜式」裏文書)は、現在の熊谷市から荒川右岸の大里郡大里村付近にかけての条里坪付を示していると考えられ、熊谷郷はこうした条里耕地の上に形成されたと思われる。

〔熊谷郷と熊谷直実〕

熊谷郷の開発領主は武蔵武士として著名な熊谷直実の父直貞(平貞盛の後裔と伝える)とされ、熊谷氏の本領であるとともに名字の地であった。「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)六月五日条に引用されている治承六年(一一八二)五月三〇日の源頼朝下文によれば、熊谷直実は同四年の佐竹秀義追討の勲功によって「熊谷郷之地頭職」を安堵されているが、文言・形式ともにこの下文の信憑性疑わしい。むしろ、同年一二月一四日に武蔵武士の本知行地主職が安堵されていることから(同書同日条)、熊谷郷はすでにこのとき直実に安堵されていたとみるべきであろう。同年八月に源頼朝が挙兵した際、直実は平家方に属して相模石橋いしばし(現神奈川県小田原市)で頼朝を攻めたが、まもなく頼朝方に転じ、平家追討の戦いでは源義経に従って活躍している。文治三年(一一八七)八月四日、直実は鎌倉鶴岡八幡宮の放生会で催される流鏑馬の的立役を拒絶し、源頼朝から所領を没収されている(「吾妻鏡」同日条)。これによって熊谷郷は鶴岡八幡宮に寄進されたが、地頭職は直実がなお保持していたようである。その後、熊谷郷と隣接する久下くげ郷との間に境相論が起こり、建久三年(一一九二)一一月二五日に頼朝の面前で直実と久下直光(直実の伯母の夫)が対決した際、直実は激昂して退席、やがて出家し、源空(法然)の弟子となって蓮生と号したという(同書同日条・「法然上人絵伝」)。しかしその前年の建久二年三月一日、先祖相伝の「大里郡内熊谷郷内」の田二〇町を子息真家に譲与する際に作成された熊谷直実譲状(熊谷家文書、以下断わりのないかぎり同文書)には「地頭僧蓮生(花押)」と署名されており、この譲状が正文であるとすれば、直実はこれ以前にすでに出家していたことになる。また相伝所領の四至は、同譲状に「東限源三郎東路 南限雨奴末南里際 西限村岳境大道 北限苔田境ヲ源次之前ノ路ヘ」と記されており、西の村岳むらおか(村岡)境の大道は鎌倉街道であったとみられる。

熊谷郷
くまたにごう

現在の三刀屋町東部の上熊谷かみぐまたに・下熊谷と木次きすき町西部の上熊谷・下熊谷の地域に比定される国衙領。「出雲国風土記」にみえる飯石郡熊谷郷が再編成されて成立した中世的所領と推定される。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一二番には「熊谷郷一七丁三反逸見六郎」とあり、甲斐国御家人逸見氏一族が当郷の地頭となっていた。その後の逸見氏の動向は不明で、明徳の乱後の明徳四年(一三九三)三月二〇日の京極高詮書下(三刀屋文書)により、三刀屋詮扶が下熊谷郷の逸見弥六跡を給恩として与えられている。

熊谷郷
くまたにごう

和名抄」所載の郷で、諸本とも能石とするが、「出雲国風土記」に熊谷郷とある。訓はクマタニか。風土記によれば飯石郡七郷の一つで、郡家の北東二六里に郷長の家があり、地名は久志伊奈太美等余麻奴良比売命が妊娠し、その産所を求めて当地にきた際「甚く久麻久麻志枳くまくましき谷なり」といったことに由来するという。風土記巻末の軍団の項に出雲三軍団の一つとして熊谷軍団がみえ、飯石郡家の北東二九里余に置かれていたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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