熊谷(読み)クマガイ

デジタル大辞泉 「熊谷」の意味・読み・例文・類語

くまがい【熊谷】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「熊谷」姓の人物
熊谷一弥くまがいいちや
熊谷岱蔵くまがいたいぞう
熊谷達也くまがいたつや
熊谷直実くまがいなおざね
熊谷直好くまがいなおよし
熊谷守一くまがいもりかず

くまがや【熊谷】

埼玉県北部の市。中山道宿場町として発達。鎌倉時代には熊谷直実くまがいなおざねの所領で、居館の跡が熊谷寺ゆうこくじとなっている。現在は重化学工業が盛ん。平成17年(2005)に大里町妻沼めぬま町と合併。平成19年(2007)に江南町を編入。人口20.3万(2010)。くまがい。

くまがい【熊谷】[地名]

埼玉県熊谷くまがや市の旧称。熊谷氏の本拠。→くまがや(熊谷)

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精選版 日本国語大辞典 「熊谷」の意味・読み・例文・類語

くまがい【熊谷】

(「くまがえ」とも)
※俳諧・炭俵(1694)下「粟をかられてひろき畠地〈利牛〉 熊谷の堤きれたる秋の水〈岱水〉」
[2] 〘名〙
※俳諧・毛吹草(1638)二「彼岸桜〈略〉くまかへ すみそめ桜」
[二] (「こもがい(熊川)」の変化した語) 高麗茶碗の一種。朝鮮の熊川(こもかい)で作られた、底が深く形の大きい茶碗。また、それに似た形の杯をいう。
仮名草子・都風俗鑑(1681)一「付ざしの熊谷(クマガヘ)に敦盛のおもはくも、磯うつ波のぬれにぬれたる中と成も有」

くまがや【熊谷】

(「くまがい」とも) 埼玉県北部の地名。鎌倉初期には熊谷直実の所領となり、江戸時代は中山道の鴻巣と深谷の間の宿場町として発展。上越新幹線高崎線から秩父鉄道を分岐する交通の要地。商工業都市。昭和八年(一九三三)市制。

くまがい【熊谷】

姓氏の一つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「熊谷」の意味・わかりやすい解説

熊谷[市] (くまがや)

埼玉県北部の市。2005年10月旧熊谷市と大里(おおさと)町,妻沼(めぬま)町が合体,さらに07年2月江南(こうなん)町を編入して成立した。人口20万3180(2010)。

熊谷市南東端の旧町。旧大里郡所属。人口8129(2000)。北は旧熊谷市,西は東松山市に接し,荒川南岸の低地を占める。近世初期の荒川の瀬替え以来しばしば水害に見舞われ,大きな被害を受けてきた。現在も洪水の際につくられた〈切れ所〉〈鏡ヶ淵〉などの沼が残る。古くからの水田地域で,条里制遺構が残されている。1902年には耕地整理が着手され,55年に全域の土地改良が完成した。米作が主だが,第2次世界大戦前には養蚕が盛んだった。弥生~奈良時代の複合遺跡である船木遺跡や冑山(かぶとやま)古墳,とうかん山古墳などがある。
執筆者:

熊谷市中部の旧市。1933年市制。人口15万6216(2000)。市域の大半が荒川の沖積扇状地よりなる低地で,扇状地湧水を利用して古くから水田が開かれ,条里遺構もみられる。一ノ谷の戦で勇名をはせた熊谷直実(くまがいなおざね)ゆかりの地で,熊谷(ゆうこく)寺はその居館跡といわれる。江戸時代は中山道の宿場町で,市が立ち,南東部の久下(くげ)河岸は荒川舟運の終点としてにぎわった。明治初年に熊谷県庁が置かれ,利根川と荒川流域の養蚕・機業地帯の行政中心地となった。養蚕業の先覚者鯨井勘衛と麦作りの改良につくした権田愛三の生まれた所で,農村部では養蚕と麦作りが盛んであった。高崎線(1883),秩父鉄道(1901),東武熊谷線(1943),国道17号,125号,140号線が通じる交通の要地で,1969年のJR高崎線の籠原電車区の開設,82年の上越新幹線駅の開業により,県南や東京への通勤が便利になり,近年は新幹線利用の通勤・通学者が増えている。1935年の熊谷陸軍飛行学校の開設により軍都ともなったが,45年の大空襲によって市街の大半を焼失した。戦後復興し,59年以後,秩父セメント(現,太平洋セメント),日立金属,日本鋼管(現,JFE),四国製紙(現,リンテック)などの近代工場が進出,生糸と製粉の町であった熊谷の重化学工業化が進んだ。また卸売業の盛んな伝統を生かして75年には埼玉県北総合流通センター(現,熊谷流通センター)も開設された。立正大学法学部,航空自衛隊熊谷基地,熊谷地方気象台がある。日本でも珍しい上円下方墳の宮塚古墳は国の史跡に,また元荒川源流部は県の天然記念物〈元荒川ムサシトミヨ生息地〉に指定されている。
執筆者:

中山道,武蔵国の宿駅。荒川左岸に位置する鎌倉期以来の交通の要衝で,地名の初見は1191年(建久2)の熊谷直実譲状。戦国期に熊谷町は木綿売買の宿とされ,忍(おし)城主成田氏の支配下となる。近世の初め忍藩領,1600年(慶長5)天領となるが,33年(寛永10)以降忍藩領に復する。村高は正保期(1644-48)2004石,天保期(1830-44)2234石。宿往還の長さ17町51間,規模は東西,南北ともに15町。1800年(寛政12)の書上には江戸まで16里,店舗12町余,戸口927軒・3276人,本陣2,問屋場1,旅籠19とある。宿内には式内社の高城明神社,熊谷寺がある。1734年(享保19)の絵図では本町,新宿,横町,門前町に分かれ,本町の中ほどに高札場と,入口と出口に木戸がある。64年(明和1)の伝馬騒動には本陣を一揆が襲い忍藩兵と戦った。市は2・7の日に立ち白木綿,太織物が売買された。1871年(明治4)入間県に属し,73年熊谷県庁所在地,76年埼玉県に編入。
執筆者:

熊谷市南西部の旧町。旧大里郡所属。人口1万3568(2005)。旧熊谷市の南西に接し,荒川南岸の低地から台地を占める。台地上は平地林と畑,桑園だったが,第2次大戦後,県立畜産試験場や農業教育センターが建設され,さらに1970年ころからはディーゼル機器などの工場が進出し,大きく変化した。旧熊谷市への通勤者が多く,70年ころから人口もふえている。樋春には平山家住宅(重要文化財)がある。

熊谷市北部の旧町。旧大里郡所属。人口2万8182(2000)。旧熊谷市の北に接し,利根川南岸の低地を占める。かつて利根川のはんらんの多かった地域で,自然堤防や後背湿地が交錯し,水田と畑が半ばする。中心集落の妻沼は江戸時代には歓喜院の門前町として,また利根川の渡船場および河岸場として栄えたが,明治以降,鉄道や国道からはずれたため衰退した。1604年(慶長9)関東郡代伊奈忠次が掘った備前渠用水が貫流する。第2次大戦前までは県下有数の養蚕地域であったが,戦後は激減し,代わって県下有数の野菜産地となった。1960年代半ばから自動車,電機,食品などの工場も進出し,県下町村中,製造品出荷額は第1位である(1995)。1179年(治承3)斎藤実盛が守本尊をまつったのに始まる真言宗の歓喜院は〈妻沼聖天(しようてん)〉と呼ばれて親しまれ,本尊は円輪のなかに歓喜天を表裏にかたどった錫杖である。利根川河川敷にはグライダー滑空場がある。利根川対岸の群馬県太田市とは刀水橋で結ばれる。
執筆者:

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「熊谷」の解説

熊谷

正式社名「株式会社熊谷」。英文社名「KUMAGAI CO., LTD.」。製造業。昭和28年(1953)創業。同35年(1960)「株式会社熊谷商店」設立。同45年(1970)現在の社名に変更。本社は新潟市中央区東大通。プラスチック包装資材メーカー。米菓・精米用のパッケージが主力。デザインから企画し顧客に提案。電子機器向けプラスチック成形品も手がける。

出典 講談社日本の企業がわかる事典2014-2015について 情報

歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「熊谷」の解説

熊谷
(通称)
くまがい

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
一谷嫩軍記 など
初演
宝暦2.4(江戸・森田座)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

事典・日本の観光資源 「熊谷」の解説

熊谷

(埼玉県熊谷市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

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