無量光院(読み)むりようこういん

日本歴史地名大系 「無量光院」の解説

無量光院
むりようこういん

[現在地名]稲沢市中之庄町辻畑

中荘山と号し、真言宗豊山派、もと長野ながの万徳まんとく寺末。本尊阿弥陀三尊。境内七五八坪。境内に阿弥陀堂くま宮・白山天神がある。寺伝によると天平七年(七三五)行基が七堂伽藍の満願まんがん寺を建立したが、天慶四年(九四一)の兵乱で本堂護摩堂のみ残し焼失中興開山実盛のあと建仁二年(一二〇二)願主沙弥行西、大檀越藤原清広・安縄が一山一二ヵ寺の大刹に再建し、寺領四千石を賜った。一二ヵ寺の学頭が無量光院。永禄初めの兵乱で寺領を失い、天正年中(一五七三―九二)の大地震で無量光院と安楽あんらく坊のみが残り、満願寺の本尊を無量光院に移した。安楽坊は元禄一四年(一七〇一)満蔵まんぞう(現中之庄町辻畑)と改号した(徇行記)

無量光院
むりようこういん

[現在地名]高野町高野山

本覚ほんがく院の南、千手院せんじゆいん谷の通りの東側に仮堂があり、準別格本山。本尊阿弥陀如来は行基の作と伝える。現在地に移転したのは明治以後で、文化一〇年(一八一三)高野山細見絵図では西院さいいん宝亀ほうき院の南に描かれる。学侶方の一院。文明五年(一四七三)の諸院家帳に良琳の建立と記されるが、久安元年(一一四五)行恵総持房の創建(高野伽藍院跡考)、高野御室覚法親王(一一五三年没)開基(諸院家析負輯)とも伝える。中興は「杣保隠遁鈔」など多くの著作を残した学僧印融(一五一九年没)と伝える。一六―一七世紀、印融ののち住持は覚融・清胤・玄仙・玄広と高僧が続き、当院の重要な師檀関係はほぼ整えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の無量光院の言及

【平泉文化】より

…平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…

【藤原秀衡】より

…しかしその1年半後,泰衡は義経を討ち,頼朝により奥州藤原氏は滅亡した。平泉に宇治平等院を模した無量光院(むりようこういん)を建立。その東門に一郭を構え,伽羅御所(きやらのごしよ)と号して常の居所としていた。…

※「無量光院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」