瀬戸内(市)(読み)せとうち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「瀬戸内(市)」の意味・わかりやすい解説

瀬戸内(市)
せとうち

岡山県の東南部に位置する市。2004年(平成16)に邑久(おく)郡の長船(おさふね)、邑久、牛窓(うしまど)の3町が合併し、市制を施行して成立。北は150~300メートル前後の丘陵山地で備前市と、西は南流する吉井(よしい)川および100~150メートル前後の丘陵地帯で岡山市東区と境し、東部から南部は瀬戸内海に臨むリアス海岸瀬戸内海国立公園指定域)が続く。北東部の邑久町虫明(おくちょうむしあげ)沖に長島など、南東部の牛窓半島沖には牛窓瀬戸を挟んで前島などの島々が浮かぶ。北端部を国道2号、中央部を自動車専用道岡山ブルーライン(県道397号)が通じ、吉井川の東方をJR赤穂線が走る。吉井川の東岸、支流千町(せんちょう)川との間に千町平野とよばれる県下有数の穀倉地帯が広がる。千町平野をおおむね西流して吉井川に注ぐ干田川(ほしたがわ)は、平野の排水に大きな役割を果たした。吉井川の東方を並行して流れる備前大用水は1685年(貞享2)の竣工。吉井川河口東部を干拓した幸島(こうじま)新田(現、岡山市東区)の灌漑用に開削されたが、余水は干田川、千町川に入り、千町平野を潤した。1930年(昭和5)長島の中央東部に日本初の国立ハンセン病療養所、長島愛生園(ながしまあいせいえん)が、1938年には島西部に同じく邑久光明園(おくこうみょうえん)が設置された。1988年(昭和63)には島と本土を隔離していた幅30メートル海峡に邑久長島大橋が架けられた。牛窓半島の北側には錦海(きんかい)湾が深く湾入していたが、1966年から塩田造成工事が始まり陸地化、湾北側のかつて漁業・廻船業の拠点であった尻海(しりみ)港は閉鎖。現在、基幹産業の農業では米、麦のほか、露地野菜、花卉(かき)、果物のブドウ、ミカンなどが栽培され、酪農も盛ん。牛窓地区のオリーブは特産。漁業は沿海漁業が主力だが、ノリの養殖や虫明湾でのカキ養殖も有力となっている。北部の長船地区を中心に岡山市のベッドタウン化も進む。

 吉井川左岸の自然堤防上にある門田貝塚(かどたかいづか)(国指定史跡)は、弥生時代前期を中心とする集落遺跡。市域中央部、旧錦海湾北方の丘陵地にある寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)(国指定史跡)は7世紀初頭から8世紀初頭に稼働した須恵器窯跡で、生産された須恵器は平城京跡からも出土した。吉井川左岸に沿う長船町(おさふねちょう)福岡(ふくおか)は、中世山陽道の吉井川渡河地点で、13世紀末には市場が開かれ、その賑わいは『一遍上人絵伝』に描かれる。鎌倉―室町時代、福岡や同じく吉井川左岸沿いの長船町長船には刀鍛冶が集住、名刀(福岡一文字派、備前長船派)の産地として知られた。牛窓瀬戸に臨む牛窓港(牛窓津)は、古くからの西海航路の港町で、中世には海運業が盛んであった。江戸時代に西廻航路が開かれると、その寄港地となり、また朝鮮通信使の接待港、金毘羅詣の発着港ともなった。朝鮮通信使の主要接待所となった牛窓本蓮寺(ほんれんじ)の境内は朝鮮通信使遺跡の名称で国指定史跡。室町後期の建立の同寺の本堂・番神堂・中門は、いずれも国指定重要文化財。邑久町北島(おくちょうきたしま)の余慶寺(よけいじ)は天台宗の古刹で、平安時代の作とされる木造薬師如来坐像と木造聖観音立像(いずれも国指定重要文化財)ほか、仏像彫刻の優作を数多くを伝え、16世紀後半建立の本堂は国指定重要文化財。大正期を代表する画家竹久夢二は邑久町本庄(おくちょうほんじょう)の出身で、生家が保存・公開されている。牛窓には西日本最大級の牛窓ヨットハーバーがある。面積125.46平方キロメートル、人口3万6048(2020)。

[編集部]


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