滑津村(読み)なめづむら

日本歴史地名大系 「滑津村」の解説

滑津村
なめづむら

[現在地名]中島村滑津・中島

東を北流する阿武隈川と北側を東流するいずみ川の間に位置し、南は吉岡よしおか村、北は石川郡松崎まつざき村と中畑なかはた(現矢吹町)、東は同郡赤羽あかばね村・新屋敷あらやしき(現石川町)、西は松倉まつくら(現矢吹町)。村の中央を南北に水戸街道、東西に松倉村から石川村(現石川町)への道が通り滑津原で交差する。「石川氏一千年史」によれば、一一世紀の後三年の役ののち、奥州山道の地を任された石川有光は、初め中野なかの(現石川町)藤田ふじた城に住みここを長男光裕に与え、石川の三蘆みよし城に移りここを三男元光に継がせた。五男光房は「奈目津邑」を与えられ奈目津五郎と称し、一族に列したとある。五郎光房は嘉保二年(一〇九五)阿武隈川と泉川の合流点、代畑だいはた岩山を天然の要塞として滑津城を築き、石川氏のもとで二三九年間支配した。建武元年(一三三四)阿武隈川西岸は、結城白川氏の所領となり、滑津城主船尾山城守の支配となった。天正一七年(一五八九)と推定される一二月二八日の石川殿宛の伊達政宗書状(首藤石川文書)に「滑津之舟山」とあり、滑津城主であった船尾山城守が政宗に臣従しようとしている。同一八年と推定される一月七日の伊達政宗書状(浅川文書)に「祝着誠ニ浅次、一両日中罷可出之由申趣候也、専一之滑津之事者、何与申分候共、不通ニ存詰候、只々軍神之血文書ニ可然候」とある。

滑津村
なめつむら

[現在地名]七ヶ宿町 滑津・大深沢おおふかさわ

七ヶ宿街道湯原ゆのはら宿の東に位置する宿場町。北は二ッ森ふたつもり山・番城ばんじよう山、南は峠田とうげだ岳と一〇〇〇メートル級の山々が迫り、その谷間白石しろいし川が東流する。南北朝期末、伊達氏が出羽国置賜おきたま長井ながい(現山形県長井市周辺)の長井氏を攻めた際、九代政宗が当地の白石川対岸の古屋こや館で越年したという。「安永風土記」にその折使用の陣椀一〇人前を当町肝入検断の桜井勘七が保持していたと記されるが、それと伝えるものが今も滑津の桜井家に残る。同館の規模は東西二五間、南北三二間で、平場・土塁・空堀・腰郭を残す。天正一九年(一五九一)から慶長三年(一五九八)まで蒲生氏の支配となり、二代秀行の倉入在々高物成帳(内閣文庫蔵)に慶長二年秋分とし、「村嶋甚右衛門 高弐千百廿弐石壱斗八升 なめ津 三ツ一分成」とある。慶長五年の白石城攻略において当村の桜井五郎兵衛、せき村の渡部助左衛門・助十郎、日野三河らは、上杉勢新宿にいじゆく(現山形県東置賜郡高畠町)の軍勢を当村仏松ほとけまつに迎え、これを退けた(貞享二年「高祖父輝宗曾祖父政宗祖父忠宗記録」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報