溝部(読み)みぞべ

日本歴史地名大系 「溝部」の解説

溝部
みぞべ

中世にみえる地名。現溝辺ふもと付近に比定され、江戸時代の麓村は溝辺村とも称された。溝辺の表記は一五世紀頃からみられるようになる(嘉吉二年三月一七日「島津持久宛行状」薩州用久系図など)。大隅国建久図田帳によれば、溝部は桑西くわのさい郷のうちにあり、正八幡宮(現鹿児島神宮)の修理料として設定された宮永みやなが名内に在河ありかわとともに併記されていた。溝部・在河の田数は欠落するが、宮永名三六町四段大から残りの小浜おばま(現隼人町)の八町を減じた二八町四段大がその田数と推測される。溝部・在河は所当のみを国衙に弁済する国方所当弁田で、町別二〇疋の所当が賦課されていた。酒井末能が両地の領主としてみえ、建久九年(一一九八)三月一二日の大隅国御家人注進状写(隼人桑幡文書)にも国方御家人の一人として西郷酒大夫末能が記されている。

その後、酒井末能(末吉)の子息道吉とその同族で正八幡宮修理所検校であった酒井為宗との間に、「溝部村」の散在田畠等の領掌をめぐって相論が繰広げられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報