湊神社(読み)みなとじんじや

日本歴史地名大系 「湊神社」の解説

湊神社
みなとじんじや

[現在地名]姫路市的形町的形

下坂しもざかにある。旧郷社。祭神は素盞嗚尊・大歳大神。現在境内社に金刀比羅ことひら神社と恵美酒えびす神社があるが、かつては塩竈しおがま神社も祀られていた(兵庫県神社誌)往古は鵜湊明神とも号したという。また播磨国内鎮守大小明神社記(神祇全書)の印南郡小社一五〇社のうちの湊明神が当社のことであるともいう(増訂印南郡誌)。近世には大歳おおとし大明神と称し、紀州高野山多聞たもん院末の真言宗蓮台れんだい寺が神宮寺として明治二年(一八六九)まで社務を執行した。その間蓮台寺が無住となり、松原まつばら村の八正はつしよう文珠もんじゆ院の社僧が兼帯したこともある。元和五年(一六一九)京都所司代板倉勝重から大歳大明神領六石六斗が蓮台寺別当宛に寄進されている(寛延二年「的形村明細帳」植田家文書)

湊神社
みなとじんじや

[現在地名]新居町新居

源太げんだ山とよばれる小高い丘陵の東麓に鎮座。旧村社。祭神は須佐之男命。湊さまと通称され、「延喜式」神名帳の浜名郡五座のうち名神大社の角避比古つのさくひこ神社にあてる説がある(遠江国風土記伝)。嘉祥三年(八五〇)八月三日、角避比古神社は官社に列せられた。「文徳実録」同日条によれば、浜名湖口に臨むところに鎮座し、湖水は多くの田を灌漑していた。浜名湖と遠州灘を結ぶ湖口が開けば水位が下がり豊穣となり、湖口が閉まると水害を被ったとあり、湖口の開通を祈るために官社に列せられたという。

湊神社
みなとじんじや

[現在地名]市浦村十三 通行道

十三じゆうさん湖の現在の水戸口から南へ約四キロ、明神みようじん沼の南端通行道つうこうどうにある。祭神は速秋津彦命。旧村社。

湊神社の所在地が浜の明神はまのみようじん跡と伝えられ、「十三往来」によれば「亦浜之大明神之奉拝社堂、並甍、玉之籬立、囲厳神殿之床十四丈、立遠鳥居、其間畳切石、不異瑠璃扉、奉尋此明神本地、東土浄瑠璃世界教主医王善誓跡給事年久、十二大願網張法界海、為救無縁之群類、瓦礫塵砂交身、風波担海辺、垂跡給事、寔悲願頼母敷霊社也」とあり、鎌倉時代末期に繁栄した十三とさ湊に出入りする船の安全を祈願する社であった。文明年間(一四六九―八七)のものとされる廻船式目では、十三湊は全国の三津七湊にあげられる日本海有数の港の一つであったが、永享四年(一四三二)もしくは嘉吉三年(一四四三)の安東氏の没落とともに活況を失い、浜の明神もしだいに衰微したと推定される。

湊神社
みなとじんじや

[現在地名]羽合町橋津

橋津はしづのほぼ中央に鎮座。旧郷社で、祭神は速秋津彦命・速秋津姫命など五柱。「三代実録」貞観九年(八六七)四月八日条にみえる「湊神」にあたるとされ、正六位上から従五位下に進階している。正嘉二年(一二五八)一一月作成の東郷庄下地中分絵図には現橋津川の河口近くの右岸に「大湊宮 西分」とみえ、領家分にあたる。戦国期には武将崇敬厚く、天文年間(一五三二―五五)尼子晴久が社領一五〇石を寄進し、天正九年(一五八一)には吉川元春が五〇石を寄進、南条元続・池田光仲も同高を安堵したという。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)には、橋津村の産土神として湊大明神とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報