海禅寺(読み)かいぜんじ

日本歴史地名大系 「海禅寺」の解説

海禅寺
かいぜんじ

[現在地名]上田市中央北二丁目

上田城の北東房山村新田ぼうやまむらしんでんにある。海野氏・真田氏にもゆかりの深い寺と伝える。真言宗智山派。本尊大日如来。古くは開善寺と記されている。もと小県ちいさがた海野うんの郷海善寺村(現小県郡東部町大字海善寺)にあったが、天正一一年(一五八三)真田昌幸が上田城を築城するにあたって、鬼門除としてこの地に移したと伝える(上田町誌)

上田に移る以前、寺が海野郷海善寺村(いま寺跡は畑地となって残る)にあった時代、永禄五年(一五六二)一一月武田信玄が、信州川中島で上杉・武田両軍が戦った頃、開善寺大坊にあてて「今度頼存候祈念成就者、開善寺領相違之所、如此已前可寄附之事」として、開善寺の所務を安堵し、所願成就ののち更に、旧寺領を還付することを約束している。

海禅寺
かいぜんじ

[現在地名]今治市山方

桜ノ町にある。日照山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。南面する丘陵の地で展望もよく、裏山一帯は桜の名所で境内に名木「塩釜桜」がある。

創建年代は明らかでないが古くは海栄寺といった。年代不詳足利義輝御内書(河野家文書)に「梅仙軒知行予州日吉海会寺分事」とみえる。貞享二年(一六八五)の寺社明細言上書にも「夫海禅寺古昔盛時号海会寺旧立法幢宗旨之伽藍也」とある。のち長く荒廃したが、信徒らが小庵を建て天嶺玄嶝を招き、藩主藤堂高吉に願って寛永一〇年(一六三三)再興を許され、海禅寺と改めている。

海禅寺
かいぜんじ

[現在地名]青梅市二俣尾

多摩川左岸にある。曹洞宗瑞竜山と号する。古くは長勝山福禅ふくぜん寺と称していた。本尊は釈迦如来。境内は都指定史跡。三田氏の菩提寺で、開山は長享元年(一四八七)没の一州正伊と伝え、五世太古禅梁のとき三田綱秀が寺堂を整備したという。上野双林そうりん(現群馬県子持村)末で、末寺四二ヵ寺を擁したが、永禄六年(一五六三)辛垣からかい城攻めの際に炎上した。七世天江東岳が復興に尽力、諸堂宇を修造したとされる(風土記稿)

海禅寺
かいぜんじ

[現在地名]阿東町大字篠目 中郷

石州街道の西、篠目しのめ川の支流奥叶おくがのう川と小河内おがわち川に挟まれた中郷なかごう岡の台にある。竜吟山と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。

寺伝によれば初めは明応二年(一四九三)創建の真言宗の寺で、竜吟りゆうぎん庵と称した。

海禅寺
かいぜんじ

[現在地名]守谷町高野

高野こうや集落ほぼ中央に位置。大雄山と号し臨済宗妙心寺派。本尊延命地蔵菩薩。寛文四年(一六六四)に領主堀田正俊が記した当寺縁起によると承平元年(九三一)平将門高野山にまねて創建、「下総旧事考」によると梅運が開山。天正一二年(一五八四)鉄岫が再興し、同一九年一一月に一一・五石の寺領を得た(下総旧事考)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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