浦川村(読み)うらかわむら

日本歴史地名大系 「浦川村」の解説

浦川村
うらかわむら

[現在地名]佐久間町浦川

川合かわい村の南西、北東流する大千瀬おおちせ川とその支流あい川流域一帯に位置する。豊田とよだ郡に属する。南東大嶺おおみね(現龍山村)、南はくま(現天竜市)と三河国一色いつしき(現愛知県鳳来町)、西は同国奈根なね(現同県東栄町)、北は同国東園目ひがしそのめ(現同上)。周囲を山岳で囲まれ、白倉しらくら山や地八じはち峠・和山間わさんま峠などが隣村との境界をつくる。一三の集落からなり、「遠江国風土記伝」には吉沢よしざわ川上かわかみ出馬いずんま黒瀬くろせ上市場かみいちば・地八・和山間、小屋敷(小田敷)栢古瀬かしやこぜ・藤平沢・早瀬はやせ・上沢・島中しまなかがあげられる。川上から三河国へ向かう道が延びていた。応永六年(一三九九)九月一八日の今川右衛門佐入道(仲秋)宛管領畠山基国奉書(宝鏡寺文書)に「遠江国西手山香内裏鹿村」とみえ、室町幕府御料所であった。おそらくしば(現浅羽町)などと同様に足利義満側室寧福院殿に交付されたのであろう(九月一七日「足利義満御内書」同文書)。同三〇年には足利義満娘今御所に交付された(同年一〇月二九日「管領畠山満家奉書」同文書)

浦川村
うらがわむら

[現在地名]両津市浦川

南は大杉おおすぎ川で平松ひらまつ村、北は野田尻のだじり歌見うたみ村。南西後方にかけては平松戴ひらまついただき山で北松きたまつさき村と境し、奥山大倉おおくら(現相川町)と入会をなす。集落の多くは海岸段丘上宮の崎みやのさきの澗に面して列村形態をなす。「佐州巡村記」には「澗深サ六尋余、西風ハ不当、拾四、五艘掛ル」とある。康永三年(一三四四)一一月一六日の足利尊氏寄進状(園城寺文書)によれば、飛騨国内の所領の替地として近江園城おんじよう寺に佐渡国の浦河保地頭職などが寄進された。また永徳元年(一三八一)一二月一四日の室町将軍家(足利義満)御教書(本間文書)には「佐渡国梅津保付浦河浦渋谷平三跡地頭職」がみえるが、検討を要する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報