浄安寺(読み)じようあんじ

日本歴史地名大系 「浄安寺」の解説

浄安寺
じようあんじ

[現在地名]大分市荷揚町

大分城址公園の北にある浄土宗寺院で、泥山と号し、本尊阿弥陀如来松平(大給)家の菩提寺江戸時代の府内城三の丸にあったが、昭和二〇年(一九四五)空襲で焼失し同二三年現在地に再建。下野板橋藩主松平(大給)一生が、慶長五年(一六〇〇)伏見ふしみ(現京都市伏見区)で戦死した父近正の冥福を祈って板橋いたばし(現栃木県今市市)建立、正誉を開基とし近正の法名により浄安寺と号したという。

浄安寺
じようあんじ

[現在地名]岩槻市本町五丁目

江戸時代の渋江しぶえ町東側にある。快楽山微妙院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。開山は天誉了聞、了聞は信濃国高遠たかとお(現長野県高遠町)の出生で、初め禅林に入ったが、のちに了誉聖冏に師事し浄土宗に改宗、明応年間(一四九二―一五〇一)江戸増上寺五世住持となり、永正二年(一五〇五)浄安寺を起立したと伝える(元禄八年「浄土宗由緒書」増上寺文書)。天正一五年(一五八七)一〇月太田氏房から寺役不入の判物を与えられ(風土記稿)末寺を有する在地の有力寺院であった。

浄安寺
じようあんじ

[現在地名]久御山町佐山

佐山さやま集落の東部に位置する。国隠山快楽院と号し、浄土宗。本尊は快慶作と伝える阿弥陀如来。寺伝によれば、天喜元年(一〇五三)仁海によって創建された浄福じようふく寺をその初めとする。天治元年(一一二四)椏本あてもと八幡宮(現久御山町双栗神社)神宮寺となり、元弘元年(一三三一)勅願寺になったという。その後衰退したらしく、天正元年(一五七三)宇治平等院の玄誉徹公によって中興され、正親町天皇から浄安寺の寺号と勅額を賜ったという。

浄安寺
じようあんじ

[現在地名]水戸市緑町一丁目

本堂は国道五〇号に北面する。三縁山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると開基の証安は俗名を八田六良朝安といい、茨城郡の出身で建保六年(一二一八)稲田いなだ(現笠間市)の草庵に親鸞を訪ねて直弟子となったという。のち宍戸ししど(現西茨城郡友部町)に草庵を結び、康元元年(一二五六)七〇歳で没した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報