津田郷(読み)つたごう

日本歴史地名大系 「津田郷」の解説

津田郷
つたごう

現在のごうの川水系に属する馬洗ばせん川上流と美波羅みはら川支流域、世羅西町上津田かみつた・下津田一帯を郷域とし、「華頂要略」によれば京都安居院領。山内氏一族が地頭としてこの地に勢力を張った。

弘安四年(一二八一)一二月二八日の将軍家政所下文写(竹内文平氏旧蔵文書)に「備後国津田敷名両郷」とみえ、山内是通の子通茂が津田郷などの地頭職を安堵されている。年次不明の関東下知状写(同文書)によれば、通茂の子通藤は翌五年一二月二七日の父の譲状によって津田郷地頭職(除後家分)を譲受け、幕府から安堵されている。その後、通藤の後家尼真如と子通宗の後家尼性忍との間で津田郷下村地頭職などの相続が争われたが、通宗の譲状を根拠に性忍の勝訴が決定した(正中二年六月一二日「関東下知状」山内首藤家文書)。通宗の子通継は元弘三年(一三三三)五月一〇日に津田郷地頭として足利高氏(尊氏)着到状を提出、七日の合戦に参加した旨を上申しており(「山内通継着到状」同文書)、同年五月日付と翌年一月一一日付で備後国津田郷地頭山内首藤三郎通継の名で軍忠状を提出している(同文書)

津田郷
つだごう

現松江市の大橋おおはし川南岸、東津田町・西津田町付近に比定される国衙領。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)の流鏑馬勤仕一三番に「津田郷」とみえる。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の八番には「津田郷廿六丁八反小」とみえ、秋鹿二郎入道女子が地頭であった。同九年一二月一二日には、鎌倉幕府が伯耆日野氏の刑部乙丸に亡父重長の遺領である津田郷内目津木めづき谷三町などを領知させると命じている(「将軍家下知状案」備中平川家文書)

津田郷
つだごう

荒川右岸の現津田に比定される。貞和五年(一三四九)三月一五日の祖広寄進状(円覚寺文書)によれば、「武蔵国津田郷内長福寺」の住持祖広が恩田おんだ御厨田島たじま郷の田在家を鎌倉円覚寺塔頭正続しようぞく院に寄進している。ただし恩田御厨の比定地との関係から、当郷を現神奈川県横浜市みどり長津田ながつだ町付近とする説もある。貞治五年(一三六六)八月二二日の建長寺住持等連署相博状(鹿王院文書)では、鎌倉建長寺領の但馬国鎌田かまた(現兵庫県豊岡市)と京都天龍寺領の津田郷が交換され、津田郷はこのときから建長寺領となっている。しかし永和二年(一三七六)一〇月に作成された円覚寺正続院文書目録(円覚寺文書)なかには「一、津田長福寺文書 失却 一結」とあるが、「失却」は異筆で注記されていることから、同年以後に津田郷は円覚寺塔頭正続院の支配から離れたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報