熊野信仰(読み)クマノシンコウ

デジタル大辞泉 「熊野信仰」の意味・読み・例文・類語

くまの‐しんこう〔‐シンカウ〕【熊野信仰】

熊野三社を中心とする信仰。

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改訂新版 世界大百科事典 「熊野信仰」の意味・わかりやすい解説

熊野信仰 (くまのしんこう)

和歌山県の熊野山(熊野三山,熊野三所と呼ぶことが多い)を中心とした民俗的信仰。熊野地方は近畿の南端に突出した山岳地帯であるが,ふもとには大河がうねって流れ,しかも洋々たる大海を見渡すことのできる地である。そのせいか早くから霊地とされ,《日本書紀》の一書には,伊弉冉(いざなみ)尊を葬った所を熊野の有馬村としている。おそらく,熊野は死者の霊のこもる国として知られていたのであろう。それはやがて聖地と仰がれ,平安時代初期には,熊野坐(くまのにいます)神社(のちの本宮),熊野早玉(はやたま)神社が成立し(《延喜式》),同中期にはその一角で埋経も行われ,卒都婆も建てられていた(《いほぬし》)。11世紀中ごろから,上記2社のほかに熊野那智神社が加わり,熊野三所権現,熊野三山などと総称されるようになった。那智神社は夫須美(ふすみ)(ムスヒ,ムスビと音が通ずる)大神を主神とし,近傍に雄大な那智滝を擁し,山岳宗教の拠点として急速に発展した。もともと熊野本宮には狩人による開創の伝承があり,熊野部千与定(ちよさだ)(千与包(かね))と名のる犬飼の男が本宮大湯原(おおゆのはら)で射取った猪を食べた(《熊野権現御垂迹縁起》)とあり,この猪(別の伝承では熊)を媒介として,本宮における阿弥陀如来の出現という形をとったらしく,本宮の本地は阿弥陀如来とされ,本宮そのものも〈証誠殿(しようじようでん)〉として,極楽往生の証明を受けられる場所と信じられるようになった。那智神社の近傍にも補陀洛山寺(ふだらくせんじ)(補陀洛寺とも)が置かれ,この浜から沖へ向かってこぎ出す〈補陀落渡海〉が行われた。これは南方の観世音菩薩の浄土である補陀落浄土にあこがれて大海に航行しようとするもので,ごく古い死者処理の方式である水葬の慣行と関係深いと思われるが,このようにして,本宮の本地は阿弥陀如来,那智の本地は千手観音,もう一つの新宮速玉神社の本地は薬師如来として,仏教による解説が整い,三山は仏教色の濃厚な山岳宗教の霊場として喧伝されるにいたった。こうした仏教的体系化の進行を如実に示すものはいわゆる垂迹(すいじやく)美術であって,熊野三山についても本地曼荼羅まんだら),垂迹曼荼羅の類が多数制作された。本地曼荼羅の例として高山寺所蔵のものを挙げると,その中央に大きく金色の円相を描き,中央と八葉蓮華とに各一体の本地仏を配しており,これらが三所権現,五所権現などに相当することは明らかで,上方には蔵王(ざおう)権現,愛染(あいぜん)明王,大威徳明王など,下方に王子神眷属神10体ほどの本地仏や垂迹形を描いている。垂迹曼荼羅の例として静嘉堂所蔵本を挙げれば,三段構成をとり,その中段の15体は三所権現,五所などを俗人の姿,僧侶の姿で表している。さらに社頭曼荼羅があり,参詣曼荼羅がある。後者は全国10ヵ所以上に遺存例があり,いずれも那智山に登拝する道俗男女の姿と堂塔のたたずまいを所狭しと配置して描いており,地方民衆に熊野への参詣の意欲をわかせる性質のものであったことがわかる。これらの絵は当然絵解きのわざを伴ったと考えられ,それも初期は絵解き法師か山伏であったろうが,熊野の場合は女性の宗教者としての熊野比丘尼の活躍を認めることができる。すなわち,地方を巡歴していた中世の巫女が,熊野三山の修行に名を借り,民間に熊野系の祈禱行為とともに,熊野の神徳の絵解きを行ったのである。前記参詣曼荼羅のほかに,彼女らは熊野系の観心十界図(これも曼荼羅と呼ばれることが多い)を携えて,六道輪廻(ろくどうりんね)を中心とした絵解きを行った。その図柄は六道図のみでなく,上方に人生階段を描くことに特色があり,この人生階段はヨーロッパで16~19世紀に広く板行されたものと奇妙に一致しているから,このあたりに熊野信仰の性格が広域的のものであったことを思わせるふしがある。この観心十界図は近年全国から11ヵ所の遺存例(同一図柄)が挙がり(うち半数は参詣曼荼羅と併存),ここから熊野比丘尼の絵解き活動の広さをよく知りえるのである。聖地熊野を初期に訪れたのは修行僧であった(《法華験記》)が,のち一般庶民の大幅な参加が見られ,彼らを〈熊野道者〉と呼んだ。平安時代末期には,白河,後白河,後鳥羽の3上(法)皇の参詣が大がかりに行われ,頻度もおよそ100年間に90回余というはげしさであり,これに追随するかのように,〈人まねの熊野まうで〉(《玉葉》文治4年9月15日条),〈蟻の熊野詣〉(《太閤記》《和訓栞》)の行列が続いたのである。これら膨大な道者群を応接するために,三山側に発達したのが御師おし)制度である。道者は,三山のいずれかの坊を守る験者に願文を捧げて師匠・檀那の契約を結ぶ。のちには,道者群を同族単位または地域単位に組織して,参詣,祈禱の斡旋をする仲介者としての先達せんだつ)が発生した。こんにち広く全国の山岳宗教にみられる〈御師・先達〉の制度は,実に熊野三山が先鞭をつけたものであり,こうした風が,全国的な熊野権現社の各地への勧請(かんじよう)の盛行とともに,全国に熊野信仰を鼓吹することとなったのである。
熊野大社 →熊野詣
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊野信仰」の意味・わかりやすい解説

熊野信仰
くまのしんこう

熊野三山を中心とする信仰で、院政時代(1086~1192)より流行した。和歌山県東牟婁(ひがしむろ)・西牟婁郡と新宮(しんぐう)市・田辺(たなべ)市、三重県北牟婁・南牟婁郡と熊野市・尾鷲(おわせ)市にわたる熊野の地は、その地勢からか、古くから神秘の地とみられ、『日本書紀』神代巻の一書に、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を葬ったとも記されているが、『日本霊異記(りょういき)』では、奈良時代末期に仏教者がこの地で修行していたことを記している。そして、平安初期には大和(やまと)(奈良県)吉野金峰山(きんぶせん)より熊野にかけての修験(しゅげん)の道場が開かれ、一方では907年(延喜7)宇多(うだ)法皇が本宮・新宮に御幸し、10世紀末には花山(かざん)法皇も御幸、那智(なち)で修行したと伝承されている。そのような熊野の三山を中心に急激に熊野信仰が隆盛を極めるようになったのは、白河(しらかわ)上皇の1090年(寛治4)御幸よりのことである。そのとき、上皇は田100町歩を寄進、三山検校(けんぎょう)職を初めて置いて、これに増誉(ぞうよ)をあて、当山別当長快(ちょうかい)を法橋(ほっきょう)に叙したことで、熊野三山の宗教的、経済的な基盤が確立した。

 そのあと続いての御幸ごとに堂塔の建立も行われ、さらに鳥羽(とば)上皇、後白河(ごしらかわ)上皇、女院方の御幸、貴族たちの参詣(さんけい)によって飛躍的な発展をみた。それは、一方に当時の人々が末法の恐怖におびえ、阿弥陀浄土(あみだじょうど)にあこがれていたが、『華厳経(けごんきょう)』入法界品(にゅうほっかいぼん)にいう観自在菩薩(かんじざいぼさつ)のすむ南方の補陀洛迦(ほだらか)山(補陀落(ふだらく)山)を熊野にあて、本宮の本地仏を阿弥陀如来(にょらい)、新宮の本地仏を薬師(やくし)如来、那智の本地仏を観音(かんのん)菩薩と説かれると、生きながら補陀落浄土へ至ることを求めたためである。また当時、一般に物詣(もう)での風が盛んとなっていたためであり、紀州の中辺路(なかへち)、大辺路(おおへち)、また伊勢(いせ)路の両道から「蟻(あり)の熊野詣で」といわれるほど多くの参詣者を出したのである。三山では検校職のもと、それぞれ独自の組織で、師職、先達(せんだつ)を有していたが、熊野道者は紀州路では、若一王子(にゃくいちおうじ)、九十九王子といわれる王子権現(ごんげん)に詣で、三山の宿坊に泊まり参詣するようになると、師職はやがて諸国に出かけて師檀(しだん)関係を結んで熊野信仰を全国的なものとするに至った。

 熊野信仰は、このように初めは浄土信仰、また延命長寿を求めての信仰より発したが、のち八咫烏(やたがらす)を図案化した熊野牛王宝印(ごおうほういん)を配布するような広い信仰となる。さらに三山は豊富な経済力をもって、室町時代にすでに御師(おし)は為替(かわせ)制度を始め、江戸時代には諸大名以下に金融貸付をするとともに、衆庶に広く信仰を説くことに努めたので、遠く東北地方、また九州より沖縄にまで熊野神社が勧請(かんじょう)され、まさに全国的な信仰となっていった。

[鎌田純一]


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百科事典マイペディア 「熊野信仰」の意味・わかりやすい解説

熊野信仰【くまのしんこう】

熊野三山(本宮・新宮・那智)を中心にした信仰。古く三熊野(みくまの)と呼ばれ霊山視されていたが,平安後期に至り,密教呪術(じゅじゅつ)と修験(しゅげん)道の隆盛に伴い,熊野三山の本地(ほんじ)が阿弥陀仏とされ,神宮寺の建立,修行場としての清水,長谷,金峰山の確立があった。907年宇多(うだ)法皇の熊野御幸(ごこう)以来次第に民間にも広まり,鎌倉時代には,現世安穏,来世善所を願う廷臣・武士・庶民で〈蟻(あり)の熊野詣(もうで)〉と呼ばれるほどにぎわった。そして聖(ひじり),先達(せんだつ)の制が確立して全国の信者と結び,熊野の山伏は霊験の宣伝をして歩き回った。→熊野詣
→関連項目王子信仰熊野

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「熊野信仰」の意味・わかりやすい解説

熊野信仰
くまのしんこう

和歌山県の熊野三山,すなわち本宮の熊野坐 (くまのにます) 神社,新宮の熊野速玉神社,那智山の熊野夫須美神社に対する信仰。熊野は古代より神秘的な聖地とされ,奈良時代よりこの地で修行をする者が多かったが,寛治4 (1090) 年,白河上皇の熊野御幸があってから政治権力を背景とする宗教的権威が生じ,熊野信仰も飛躍的な隆盛をみた。かくて熊野詣での参詣人は全国各地から集るようになったが,これには熊野の御師 (おし) や山伏の活動によるところも大きかった。御師は八咫烏 (やたがらす) の故事にちなんで熊野牛王を配布し,魔よけの信仰を広め,また各地に神事芸能を伝えた。

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世界大百科事典(旧版)内の熊野信仰の言及

【鈴木氏】より

…牟婁郡のほか,藤白(名草郡藤白浦)の鈴木氏は地頭としてこの地に来たといい,そのほか雑賀(海部郡),日高(日高郡),名高浦(名草郡),粉河(那賀郡)などにも存在する。熊野信仰が平安後期から鎌倉期にかけて高まるにつれて全国に勧請され,それとともに鈴木氏も各地へ移り住むようになったと考えられる。【内藤 範子】。…

【土佐国】より


[文化]
 宗教では弘法大師信仰にかかわる平安末期からの四国巡礼があり,室町期にはいわゆる〈四国八十八ヵ所〉の原形が成立する。熊野信仰も比較的早く,御師(おし)による武士階級の旦那化は鎌倉期からみられ,各所に熊野社が勧請されている。南北朝期,土佐南軍の一翼に高岡郡横倉社の熊野衆徒があった。…

【波上宮】より

…社伝によれば,昔,崎山の人が漁のとき霊石を得て,これを神託によりまつったと伝える。しかし,古くより熊野信仰の浄土的な見方があり,東シナ海の彼方を望む隆起石灰岩の断崖の上の現在地に,熊野権現の拝所として社殿を建ててまつっていたと考えられている。琉球八社の第1位で,1890年には官幣小社に列格し,別当寺の波上山護国寺を分離,施設も整備されたが,太平洋戦争末期の戦闘で社殿,宝物などすべてを焼失。…

【弁慶物語】より

…穂久邇文庫蔵の絵巻《武蔵坊弁慶物語》(仮題。1巻)は残闕(ざんけつ)ながら,最古の伝本とされ,熊野信仰を背景とする長大な語り物が室町初期から存したことをうかがうことができ,後の〈自剃(じぞり)弁慶〉〈橋弁慶〉などの短編の母胎ともなった。室町期の絵巻,写本をはじめ伝本も比較的多く,結びの奥州下りが《義経記》とも《十二段草子》とも異なるのをはじめ,義経を〈小男〉とし,具体的な兵法の描写に富むなど,重要な問題点を多く含む作品である。…

※「熊野信仰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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