油井村(読み)ゆいむら

日本歴史地名大系 「油井村」の解説

油井村
ゆいむら

[現在地名]安達町油井、二本松市竹田たけだ根崎ねざき

二本松城下に隣接する村で、奥州道中の宿駅。南は大平おおだいら村・成田なりた(現二本松市)、東は上川崎かみかわさき村、北は渋川しぶかわ村。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条の東山道陸奥国駅馬中にみえる湯日ゆひ駅を当地に比定する説があるが確かではない。天正一三年(一五八五)九月、降参した二本松畠山義継に対し、伊達輝宗は油井川以北と杉田すぎた川以南の二本松領を没収し、二本松城を中心とする二つの川に挟まれる五ヵ村のみを安堵し、子息を人質として米沢に差出せとの条件を出している(「政宗記」同月二六日条)。二本松城を攻め落した伊達政宗は、同一四年九月七日、「ゆい」のうちから畠山氏旧臣塩川左馬助に「やち」(谷地)二貫四〇〇文、「二平内」(二平地)三貫一八〇文、「とつちろ内」五〇〇文の計六貫八〇文、あへ六郎兵衛に「さハき」八〇〇文、「さく」(作)三貫文の計三貫八〇〇文、佐藤文平に「やくし堂」(薬師堂)二貫五〇〇文の地を与えている(「二本松配分日記」伊達家文書)

油井村
あぶらいむら

[現在地名]篠山市油井

古市ふるいち村の南に位置し、武庫むこ川支流の油井川・天神てんじん川が流れる。中世は油井保などとみえる。年未詳ながら草野くさの村・古森こうもり村が分立した。天正一五年(一五八七)一〇月二日の豊臣秀吉朱印状(東京大学史料編纂所影写本加藤文書)によれば、多紀たき郡「油井」内の二二〇石などが加藤清正に加増されている。同年九月の酒井庄内高帳写(酒井義一家文書)に「油井村」とみえ、高四六二石余。

油井村
ゆいむら

[現在地名]黒磯市油井

南には入会原野大輪地おおわじ原が広がり、東は赤淵あかぶち村、西は村、北は那珂川を隔てて板室いたむろ村およびはら村の枝村六斗地ろくとじ(現那須郡那須町)。那須野ヶ原北端近くに位置し、あるていど広い那珂川右岸段丘にある。今津中街道が西部を南北に通る。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)に「ゆひ」とあり、岩崎いわさき下厚崎しもあつさきとともで五四石一斗七升。

油井村
ゆいむら

[現在地名]東金市油井

田中たなか村の北に位置し、東金御成とうがねおなり街道と東金道が並行して通る。中世の湯井ゆい郷の遺称地。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三一四石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では油井組に属し、旗本島田領で同高。元禄一一年(一六九八)から南町奉行組与力給知になったと考えられる(「町奉行組与力給知両総村々石高覚」飯高家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高三四七石余、家数四〇、幕府領・与力給知。旧高旧領取調帳でも領主は同じ。

油井村
ゆいむら

[現在地名]都万村油井

那久なぐ村の北に位置し、西部は海に臨む。正保国絵図に村名がみえ、北西の海辺に倉田くらた村とあるのは南方みなみがた(現五箇村)枝郷であろう。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田五〇石余・四町二反余、畑三一石余・二四町五反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)一九匁・漁請役三二匁・山手塩一〇〇俵役一七匁・柄油五升役一匁・核苧六三〇目役一匁七分・牛皮一枚役丁銀二匁五分、家数三五(百姓二六・間脇九)のうち御役目屋敷一九、人数一八四、牛四八・馬四四、弓・鎗・鉄砲各一。

油井村
ゆいむら

[現在地名]白川町白山しらやま 油井

飛騨川左岸、川沿いの山腹に位置する。北と東は佐見さみ村、南東宇津尾うつお村、西は飛騨川を隔てて武儀むぎ村君むらぎみ村。正保郷帳では湯井村とあり、苗木藩領で、田方六石余・畑方一七石余。以後幕末まで同藩領。天保郷帳では田島たじま(現益田郡金山町)の内として記される。明治五年(一八七二)の村明細帳では田高一七石余・畑高一二石余・屋敷高一石余・新田高二七石余、家数一八・人数八九(男四四・女四五)、馬四。

油井村
ゆいむら

[現在地名]軽井沢町油井

沓掛くつかけ宿の南方二キロの本村と、その東北方川沿いの鳥居原とりいはら及び塩沢新田しおざわしんでんを越えた東の成沢新田なるさわしんでんよりなる。南は風越ふうえつ山で発地ほつち村に境する。

古代の官牧長倉ながくら牧の境域で、野馬除のまよけ跡とみられる数条の空堀を残している。

油井村
ゆいむら

[現在地名]瀬戸内町油井

久根津くにいてい村の北西に位置し、集落は入江に臨む。南に須佐礼すされの集落、沖に油井小島がある。ひぎや間切渡連どれん方のうち。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、「ゆい崎」「ゆい小島」がみえる。「大島私考」には渡連方九ヵ村のうちとして「油井村」とみえ、高五六石余、うち享保内検後の開地は一石余。文化三年(一八〇六)大島代官本田孫九郎が上申した一八ヵ条(大島要文集)に二三反帆船を係留する居船場一九ヵ所の一つとしてみえる渡連方の「油村湊」は油井湊と考えられ、津口横目の船改が行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報