河西村(読み)かさいむら

日本歴史地名大系 「河西村」の解説

河西村
かさいむら

[現在地名]昭和町河西

西は山神やまのかみ(現田富町)、南は布施ふせ(現同上)、北は飯喰いつくい村。東の上河東かみがとう村との境を遠藤えんどう川が南流する。村内西部に信玄堤があり、堤の外を常永じようえい川が南流する。天正一〇年(一五八二)一一月六日中沢主税祐(助)は「河西連久分増分」を安堵されている(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)

慶長六年(一六〇一)と推定される検地帳(県立図書館蔵)では上田一反余・中田四町八反余・下田三町三反余・下々田三反余、上畑一町六反余・中畑一町六反余・下畑二町余・下々畑六反余、屋敷二反二畝余、このほか永不作六反余がある。

河西村
かわにしむら

[現在地名]桜井市大字河西

寺川に沿った村落。北は桜井村。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「河台庄 四丁九反」、中世の談山神社文書に「迎西」がみえ、小字五条山ごじようさんの天満神社水船に「享保十天三月吉日 川西村六兵衛」とある。

近世初期は桜井村のうち。元和五年(一六一九)以降津藩(藤堂高虎)領であるが、桜井村からの分離独立年代は郷帳からみれば寛永一六年(一六三九)から元禄一五年(一七〇二)の間。

河西村
かわにしむら

[現在地名]橿原市川西かわにし

曾我川西岸に立地。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の忍海おしみ郡に「河西庄田畠二町 公田也」とあり、公田の条里坪付は三〇条二里三〇坪(現大和高田市大字根成柿)、同条三里四坪(現御所市大字柳原)となっている。河西庄の延久以後は不明であるが、当村は忍海郡三〇条一里の東部にかかっており、なんらかの関係があったとも考えられる。

文禄四年(一五九五)検地の村高九六六・二七石。江戸初期は高取藩(本多俊政)領、万治元年(一六五八)旗本植村政春領となり、享保一四年(一七二九)幕府領編入

河西村
かわさいむら

[現在地名]野村町河西

稲生いのう川が宇和川に合流する地点の小山村。「こうさい」とも読む。北は四郎谷しろがたに村、東は村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「河西村 柴山有、茅山有、小川有」とある。四郎谷村に属した。

太閤検地石高は三四石二斗一升、耕地面積の比率は田六四パーセント、畑三六パーセントであったが、寛文検地では石高は二倍に増え、田四二パーセント、畑五八パーセントの比率に変化した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報