河内浦(読み)かわちうら

日本歴史地名大系 「河内浦」の解説

河内浦
かわちうら

[現在地名]平戸市川内町

中世よりみえる平戸島東岸の湊津。平戸瀬戸の南西方にあり、北のおお崎、南のきよう崎に挟まれた緩やかな入江からさらに西に狭い港湾が形成されている。

〔中世〕

天文八年(一五三九)三月一七日に志賀しか(現福岡市東区)を出た大内氏の遣明船があずち(現大島村)を経て平戸に着き、二四日には潮時をみて「河内浦」に到着、ここで帆を張って晦日に発して五島の奈留なる(現奈留町)に到着、それより渡海の航路に就いている(「策彦入明記」同年三月二四日条など)。同一六年にも策彦を正使とする大内氏の勘合貿易船が四月一日に「川地の浦」に着き、同月一一日に五島に向かって出船している(「大明譜」妙智院文書)。一五六四年(永禄七年)八月大村のサン・ペドロ島(八ノ子島)に着岸したポルトガル船は平戸方面に航路を変え、平戸より一レグワ半のところにあるコウチCochimに入港している(一五六四年「パードレ・ペレス宛一ポルトガル人の書簡」イエズス会士日本通信)オランダ船・中国船の風待ち湊または修理湊として、平戸湊の副港の役割をもった領内有数の良港であった。延徳三年(一四九一)箕坪みのつぼ城での合戦では有馬氏の援軍を得た峰純元の軍勢は平戸を焼き、兵船は河内浦から上陸している(「松浦家世伝」「壺陽録」など)。一六三七年ハーヘナールは「平戸湊は沿岸を航行する小さな日本船には適するが、海洋を航行するオランダ船には不向きだ。河内浦は湾内が広く、海底よく、入港安全で、したがって船の修理や準備に適する」と報告している(日欧通交史)

〔イギリス商館の時代〕

慶長一九年(一六一四)イギリス商館に勤務するウィリアム・アダムズは長崎で購入した朱印貿易船シー・アドヴェンチャー号をもって暹羅国(タイ国)に向けて河内浦を出航、故障のため琉球那覇なは(現沖縄県那覇市)寄港して修理したが、元和元年(一六一五)河内浦に引返している。イギリス商館長コックス(慶長一九年から元和九年まで就任)は葡萄酒一樽、豚の肢肉、パン一〇個などを差入れに同号を訪れている(「イギリス商館長日記」同年六月一一日条)。このときアダムズが琉球藷を持込み、コックスに贈ったものが甘藷栽培の起源となるもので、それを栽培する庭のために年額一〇匁(五シリング)を支払っている(同日記同月一九日条)平田ひらた鳶の巣とびのすにコックスの甘藷畑跡(県指定史跡)がある。ジャンク船の修理に最も適当な場所とされた当浦で大幅の修理が加えられて再渡航がなり、同二年に帰着、交易の利潤を得ている。

河内浦
かわちうら

[現在地名]蒲江町蒲江浦 河内

蒲江浦の西、小蒲江おがまえ湾の湾奥北部に位置。惣名蒲江浦の内。慶長六年(一六〇一)の竹野浦組差出帳(佐伯藩政史料)河内村とみえ、高五七石余、名請人として藤二郎がみえる。正保郷帳では蒲江郷に属し、田高二四石余・畑高三三石余。元禄見稲簿では下浦しもうら村の内で無高。宝暦五年(一七五五)の免は一ツ七分(「仕上御免相御請証文」広瀬家文書)。江戸時代後期の検地帳(河内区有文書)によれば田高四〇石余・反別四町二反余、畑高四八石余・反別九町五反余(うち屋敷五反余)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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