平戸湊(読み)ひらどみなと

日本歴史地名大系 「平戸湊」の解説

平戸湊
ひらどみなと

[現在地名]平戸市崎方町・浦の町・宮の町など

平戸島の北東部に置かれた湊津。かつてはかがみ浦に深く形成された入江があり、現在の魚の棚うおのたな町・さいわい橋付近まで船の出入りがあったという。中世より湊の機能があり、貿易都市として平戸松浦氏の拠点となっていたが、近世には平戸城下の湊として重視された。町船は町中八ヵ所の渡唐口(渡場)を利用していたので、平戸湊はそうした船繋場の総称であったと考えられる。康正二年(一四五六)松浦義(天叟)朝鮮王朝から歳遣船を許されて通交を行っていた当時、戸石といし川・かがみ川の流入する河口部の西手にある勝尾かつお岳を拠点としていたとされるので、当浦を用いた可能性がある。その子の豊久(天翁)の代にも王朝に使船を派遣している。天文年間(一五三二―五五)松浦隆信(道可)の時代、明の五峯王直を迎え、勝尾岳東麓に居宅を与えて海外交易を盛んに行い、「平戸津へ大唐より五峯と申す人罷り着いていまの印山寺屋敷に唐様の屋形を立て罷住申ければ、それをとりへにして大唐の商ひ船、たへせずあまつさへ南蛮の黒船とて初て平戸へ罷着けば唐南蛮の珍物は年々満々と参り、京堺の商人あつまり候間西のみやことそ人は申ける」というほどであった(大曲記)。また「大唐船初、薩摩豊後渡来、日本唐物充満、平渡富貴ス」とあるものの、のち男女ともに衰微し、雇用が減ったので、女は平戸で「傾城ス、男ハ唐ニ渡リ盗シテ死ヲ不顧」という状況をも伝えられる(「新豊寺年代記」松浦史料博物館蔵)。天文一九年ポルトガル船が平戸に入湊、それ以来寛永一八年(一六四一)までの九〇年間に唐船やポルトガル船のほか、イスパニアオランダ、イギリスの諸船が出入りし、オランダ、イギリスは商館を鏡浦に臨む地に構えた。「異国船入津したれば京堺の者共多く、今の長崎のごとく不断居りけれ」というほどで、町屋が広がり、海岸部を埋立てたという(壺陽録)

天正三年(一五七五)七月一二日、上京の途にあった島津家久は「平戸」に着いて唐船に乗って見物したり、普門ふもん寺で松浦氏に見参したりしている(「島津家久上京日記」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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