沢城跡(読み)さわじようあと

日本歴史地名大系 「沢城跡」の解説

沢城跡
さわじようあと

[現在地名]榛原町大字沢

興福寺国民、伊勢国司北畠氏の被官沢氏の居城。城跡は伊那佐いなさ山支峰の俗称しろ(五一〇メートル)本丸・二の丸・三の丸・出丸の連郭、堀の跡を残し、付近に小字城山しろやま下城したしろ山城口やましろくちなどがあり居館跡と考えられる。東方尾根続きに出城米山よねやま城跡が存在。

「足利季世記」永禄三年(一五六〇)の記事に「同十一月松永霜台(久秀)摂津衆引卒、大和国沢日ノ牧ノ城ヲセメラルル云々。同廿四日ニ沢日ノ牧城モコラエカ(ネアツカイ)ニシテ退ケレハ(下略)」とあり、沢城は松永久秀の支配下に入り、沢氏は伊賀に追放されて、久秀の部将高山飛騨守図書が入部した。

沢城跡
さわじようあと

[現在地名]鈴鹿市飯野寺家町 城掛

西条にしじよう町の南方約五〇〇メートルにあるので一名神戸西かんべにし城、西条城ともいった(伊勢名勝志)。周辺は条里制水田地帯のなかにあり、沼沢地を利用した平城である。中心部の城掛しろがかりの周囲には東沢ひがしさわ城西・マムシ原・馬渡まわたり(西条地内)などの地名がある。東西約一三〇メートル、南北八〇メートルの長円形で水田より一メートル前後高く、耕地となっている。

正平二二年(一三六七)関氏一党が五家に分れた時、盛澄がここに拠って神戸氏を称し、河曲・鈴鹿二郡二四邑を領したという。それより約二〇〇年後、四代具盛の時、神戸城に移った(神戸録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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