池ノ原村(読み)いけのはらむら

日本歴史地名大系 「池ノ原村」の解説

池ノ原村
いけのはらむら

[現在地名]高郷村池ノ原

塩坪しおつぼ村南方の山間に位置し、河沼郡野沢組に属した。南は同郡天屋てんや(現会津坂下町)。かつて当地には田地がなく、もっぱら製炭を業としていたが、いつの頃か出羽国の住人猪子五郎兵衛なる者が来住、池を掘り田地を開いたといい、村名もこのことに由来すると伝える。五郎兵衛の子荘五郎も新田四〇石を開墾、自らは四分の一にあたる一〇石をとり、残余は村に与えたため以後新田開発の際には肝煎が四分の一をとり、残りを村中で分配するのが慣例となったという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに池原とみえ、高四五石余。寛文一〇年(一六七〇)の万覚帳(高郷村史)によると高四〇石、反別は田方二町余・畑方三町二反余、免四ツ七分八厘五毛、家数八(竈数一〇)・人数五五。

池ノ原村
いけのはらむら

[現在地名]北山村大字上池原かみいけはら・下池原

池峯いけみね村の東北方、北山川の曲流地に立地。慶長郷帳には村名はみえず、村高九四五・一九七石の「北山村」のなかに含まれ、幕府領(代官大久保長安)。寛永郷帳に初めて村名が現れ、村高一三一・四八八石、幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報