段山(読み)だにやま

日本歴史地名大系 「段山」の解説

段山
だにやま

[現在地名]熊本市段山本町・島崎一丁目

熊本城のある茶臼ちやうす山が西に向かうにつれ、しだいに低下して藤崎ふじさき台となり、その台地先端がくびれた形でやや低地化し、次の新たな半楕円形の舌状台地となり、この舌状台地を段山と称する。茶臼山台地西麓から藤崎台の西突端の北側空堀の外を東西に伝う小路が南に方向転換し、藤崎台地のくびれて低くなった所を通り、島崎しまさき方面に抜ける。この小路が段山の東の境目道である。この丘陵地は藤崎台につながり、藤崎台には藤崎宮が鎮座していたことから、中世には藤崎宮の社領・神域である宮内みやうち庄に含まれていたと思われる。またこの台地には藤崎宮の社人たちの屋敷地および御旅所がある。この地の開発は、藤崎宮が勧請・鎮座した平安時代末期頃からであろう。加藤氏代熊本城之図(「加藤清正伝」所収)でも、藤崎台および藤崎台西側の空堀までは記されるが、段山は描かれず、城外として位置付けられていた。細川氏入国早々の寛永一〇年(一六三三)幕府に提出した肥後国熊本城之絵図(県立図書館蔵)も藤崎台までで区切られ、段山の姿はみえない。しかしこの絵図に基づいて行われた普請・修復場所について、同二一年の熊本御城御普請之目録(永青文庫蔵)は「一、段山出口之堀」をあげ、段山口の堀を拡幅することを命じているので、寛永末年頃から段山の防備機能が認識され、熊本城下として位置付けられた。

明暦(一六五五―五八)頃には藤崎台の西の端に二つの大きな武家屋敷があり、その三方を空堀が囲み、熊本城域を区画している。北と西側の空堀の外側には、藤崎台北西山麓を通る小路が西下し、ついで南下して藤崎台地と段山台地を分ける。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報