横沼村(読み)よこぬまむら

日本歴史地名大系 「横沼村」の解説

横沼村
よこぬまむら

[現在地名]坂戸市横沼

小沼こぬま村の南にあり、東は南東流する越辺おつぺ川を境に比企郡伊草宿いぐさしゆく村・上伊草かみいぐさ(現川島町)。伝承によると、横沼はもと「余小沼」といって小沼から分れたともいい、「和名抄」記載の入間いるま余戸あまるべ郷の後身とする説もある。「吾妻鏡」によれば、寛喜四年(一二三二)二月二六日「武蔵国榑沼堤」が大破したためその修固が便宜の地頭に命じられた。この「榑沼堤」を「横沼堤」の誤記と推定する説がある。正嘉元年(一二五七)一一月二八日北条時頼により「入東郡横沼郷」が相州鎌倉大慈だいじ寺内釈迦堂領として永代寄進された(「北条時頼寄進状写」・同年一二月二日「将軍家政所下文写」相州文書)。その後同領として続き、貞治三年(一三六四)六月二五日に、同月一一日の足利基氏の御教書の旨を受けて大慈寺新釈迦堂領武蔵国横沼郷に対する片楊長門入道の押領を退けて下地が寺家雑掌に打渡されている(「成田泰直打渡状」光触寺文書・「玉井蔵人入道覚道打渡状」明王院文書)。天正一八年(一五九〇)七月一七日の鶴岡八幡宮領指出(後藤俊太郎氏所蔵文書)には「武州横沼郷之内 但釈迦免」二〇貫文がみえ、大慈寺が廃絶したあと郷内の一部が鎌倉鶴岡八幡宮領となっていた。

横沼村
よこぬまむら

[現在地名]東大阪市横沼町一―三丁目・永和えいわ一―三丁目

渋川郡に属し、西隣荒川あらかわ村の枝郷。村内を十三じゆうさん街道が通る。享保八年(一七二三)年貢・諸役は村切となった(→荒川村中世には石山いしやま本願寺(跡地は現東区)勢力下にあった「河内八里」の一で、「天文日記」の天文五年(一五三六)一二月二六日条をはじめ「横沼」が散見する。元文二年(一七三七)河内国高帳では横沼村として高三八一石余、幕府領。宝暦一〇年(一七六〇)には幕府領(瀬川家文書)、天保郷帳では荒川村に含まれており、幕末にも幕府領。

横沼村
よこぬまむら

[現在地名]会津若松市神指町こうざしまち北四合きたしごう

会津盆地中央部、阿賀川川の間にあり、北は高久たかく村、南は神指村。かつては北東二町二〇間にあったが、水災により現在地に移り、北西に横沼という沼があったので村名としたという(新編会津風土記)。神指村の端村にも横沼があり、洪水後の流路変更などにより小規模な河跡湖が多い地形を示していると思われる。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」に村名がみえる。高久組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高三〇一石余。化政期の家数二二(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数二六(寺一)・人数一四六(人員録)。同八年上神指村・下神指村・東神指村と合併して北四合村となる。戊辰戦争末期は会津の各地で戦いが激しくなり、農民の生活は困窮してきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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