桑崎村(読み)くわがさきむら

日本歴史地名大系 「桑崎村」の解説

桑崎村
くわがさきむら

[現在地名]雄勝町くわさき

高松たかまつ川と雄物川の合流点に形成された複合扇状地に面する河岸段丘上にある。羽州街道が北の支郷中泊なかどまり村を通り、東は相川あいかわ(現湯沢市)、南は横堀よこぼり村、西は小野おの村・泉沢いずみさわ村、北は上関かみせき(現湯沢市)と接する。

村の成立は文献の上では明らかではないが、中世のものと推定される板碑が残る。平城ひらじようの西に鵜沼うぬま城跡があり、室町時代後半に構築された平城の跡とみられる。また御返事おつぺしの東の山頂に御返事城跡があり、中世末には小野寺氏の支城となっている。

梅津政景日記」元和五年(一六一九)一二月一日条に「くわか崎村・鮎川村野論ニ付、あい川村ノ百性壱人ころされ候」とあり、近世初期相川(現湯沢市)との間に野論が起きている。

桑崎村
くわさきむら

[現在地名]羽生市桑崎・西にし一―五丁目

あいの川左岸の自然堤防とそれに連なる後背湿地にある。東は上羽生村、南は上岩瀬かみいわせ・中岩瀬の二村と自然堤防に沿って連なり、西も上岩瀬村。田園簿によれば田高一九九石余・畑高三一一石余、幕府領で、ほかに野銭永三五〇文。国立史料館本元禄郷帳では旗本藤枝領と白山社、全福ぜんぷく寺、上岩瀬村医王いおう寺の寺社領。藤枝領は宝永二年(一七〇五)から天明五年(一七八五)まで(「寛政重修諸家譜」など)。寛政二年(一七九〇)陸奥泉藩領となり、幕末まで同藩領(改革組合取調書など)。承応三年(一六五四)・貞享四年(一六八七)検地が実施されたといい、化政期の家数六八(風土記稿)

桑崎村
かざきむら

[現在地名]富士市桑崎

鵜無淵うないがふち村の北、愛鷹あしたか山の西麓に位置する。慶長一四年(一六〇九)当時、間門まかど村など三村とともに「山家四ヶ村」として一括されていた。寛永九年(一六三二)幕府領となる。寛永改高附帳に桑崎村とみえ、田方五石余・畑方一一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android