根子村(読み)ねこむら

日本歴史地名大系 「根子村」の解説

根子村
ねこむら

[現在地名]花巻市上根子かみねこ中根子なかねこ下根子しもねこ不動ふどう上諏訪かみすわ大谷地おおやち諏訪すわ実相寺じつそうじやまかみ南城なんじよう桜町さくらまちなど

北上川の支流豊沢とよさわ川の下流域に位置する。江戸初期には一村であったが、のち二村(上根子村・下根子村)分立、後期には三村となり、「邦内郷村志」に上根子村・下根子村・向下根子むかいしもねこ村が載る。旧高旧領取調帳には上根子村・中根子村・下根子村とあり、西の上流側から上・中・下と続き、上根子村の豊沢川を挟んだ南側は太田おおた村、中根子村の中央を同川が貫流し、東は里川口さとかわぐち村。中根子村の南東、北上川右岸に下根子村があり、同川沿いに奥州街道が通る。

上根子の熊堂くまどうにある熊野神社は、坂上田村麻呂が大同二年(八〇七)熊野大権現を勧請したことに始まると伝える。同社を中心に数十基の古墳があったといわれ(熊堂古墳群)、また奈良時代の住居跡を含む古館ふるだてII遺跡・万丁目まんちようめ遺跡も近い。当地付近に東山道磐基いわき駅を比定する説もあり、古くから開発された地域であった。豊沢川左岸段丘上の字古館に根子中ねこなか館跡がある。堀の幅は約一五メートルと推定され、方形状に堀がめぐらされていたと思われる。平城の形式で万丁目館・古館ともよばれた。稗貫氏一族の根子氏(万丁目氏)の居館といわれ、天正一八年(一五九〇)稗貫氏とともに根子氏が没落したときには周防が館主であったと伝える。

根子村
ねこむら

[現在地名]西川町大井沢おおいさわ

寒河江さがえ川最上流に位置し、周囲は一〇〇〇メートルの標高をもつ山地で、寒河江川(根子川)と支流根子沢との合流点近くに集落がある。寒河江川北岸は大井沢村枝郷の見付みつけ村。南の地蔵じぞう峠を越える道は道智どうち通とよばれ、湯殿山参詣行人の通行路であった。貫見ぬくみ(現大江町)の松田氏から分れた家が、大頭森だいずもり山を越え根子沢沿いに居住したと伝える。最上氏領から元和八年(一六二二)以降幕府領。元和九年の高四五石余(最上記)正保郷帳では田方四四石余・畑方八斗余・寺社領四石余。

根子村
ねつこむら

[現在地名]下部町根子

瀬戸せと村の北東、烏帽子えぼし(一二五七・四メートル)西麓の西八代台南端に位置し、反木そりき川の上流(根子川)流域沖積地と山麓緩斜面に立地する。村名は高い山嶺の間に位置することによる(甲斐国志)。慶長古高帳に根子とみえ高一二石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高四四石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数五二・人数二六七、馬五。上・下の二組に分れていた(甲斐国志)万福まんぷく鉱山にかかわる美咲みさき様があり、反木川沿いの八坂はつさか村から村内を通り瀬戸村を経て古関ふるせき村に至る道を美咲様道と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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