栗村(読み)くりむら

日本歴史地名大系 「栗村」の解説

栗村
くりむら

[現在地名]綾部市栗町・豊里とよさと町・たち町・大畠おおばたけ町・今田いまだ町・小貝おがい町・石原いしわら

由良川北岸でさい川が由良川に合流する地域にあり、何鹿郡内で最も広大な沖積地である。東は位田いでん村、西は私市きさいち村・小畑おばた小西こにし村・同鍛冶屋かじや村・新庄しんしよ村。南は由良川を隔て中筋なかすじ大島おおしま村と渡船で結ぶ。村内に綾部城下と郡西北部を経て加佐郡の由良川筋に至る街道が通る。

村の北方の大野おおの(以久田野)は中丹地方最大の原始・古代遺跡が集中している。丘陵中央部の赤土層からは先縄文時代のスクレーパーが、丘陵の西端から犀川流域に下る館遺跡からは弥生式土器・石斧・勾玉類が出土している。また丘陵の南端付近には以久田野いくたの古墳(九六基、現在大半が破壊)上村かみむら古墳群(一五基)があり、西端には三宅みやけ古墳群(四基)・館古墳群(五基)高谷たかたに古墳群(一〇基)などがある。

地名は古代の栗村郷(和名抄)中世栗村庄による。

南北朝期の建武四年(一三三七)五月二六日、当地辺りと思われる「栗村河原」で合戦があった(片山家文書)。「大館常興日記」天文一一年(一五四二)閏三月の条に「丹州にてハ栗村・池田村大つき押領事」とみえる。

慶長一八年(一六一三)検地帳に「志賀庄栗村東方」と記されたものがあるが、福知山藩有馬氏領時代に何鹿いかるが郡西北部を包括的に志賀しが庄とよんだものであろう。

栗村
くりむら

[現在地名]西城町栗

西城川を隔てて平子ひらこ村の西から北西に位置し、北は入江いりえ大屋おおや両村。山が西城川岸近くまで迫り、耕地は少ない。村域南西端の西城川支流の大戸おおと川上流域に小盆地があり、枝郷の大戸の集落がある。村域には長久保山ながくぼやま古墳・梶屋谷かじやだに古墳群・つかもと古墳など十数基の古墳のほか大戸遺跡などがある。

地名は尺田の熊野しやくたのくまの神社に伝わる文亀二年(一五〇二)の棟札に「備後州奴可郡西条保久里村大檀那源親盛」とみえる。天文二年(一五三三)宮氏七代の高盛は、当村と入江の境にある大富おおとみ山に居城を構えたので、天正一九年(一五九一)一一代広尚が出雲へ移されるまで一帯は奴可ぬか郡支配の中心地となった。なお、宮氏によって久代くしろ(現東城町)から能楽のうらく寺が移され、また菩提寺として浄久じようきゆう寺が建立された。

栗村
くりむら

[現在地名]大河内町栗

犬見いぬみ村の東、為信ためのぶ村の北に位置し、いち川上流の谷間に立地する。東は多可たか大山中おおやまなか(現神崎町)。中世の名の遺称門垣地かどがいちがある。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷寺前てらまえ村と同じ。正保郷帳では田方一一〇石余・畑方一五石余、「柴山有」と注記される。天保郷帳では高一三四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報