加佐郡(読み)かさぐん

日本歴史地名大系 「加佐郡」の解説

加佐郡
かさぐん

面積:九六・四六平方キロ
大江おおえ

現在は一郡一町であるが、かつては舞鶴市全域・宮津市由良ゆら地区を含み、府北部の由良川下流域および若狭湾の支湾舞鶴湾沿岸一帯を占め、東は若狭国大飯おおい(現福井県)、南は丹波国何鹿いかるが(現綾部市)天田郡(現福知山市)に、北は大江山(八三二・五メートル)山系で与謝郡(現与謝郡・宮津市)と、西は丹波国天田郡(現福知山市)に接していた。

地名は藤原宮出土木簡に「丙申年七月旦波国加佐評□□」とみえるのが早い。「丙申年」は持統天皇一〇年をさすと考えられる。「日本書紀」天武天皇五年九月条には「訶沙郡」、寿永三年(一一八四)四月一六日付平辰清所領寄進状案(東寺百合文書)には「伽佐郡」とみえるが、「延喜式」神名帳・「和名抄」に「加佐郡」とあり、一般には「加佐」を用いたと思われる。「延喜式」(武田本)神名帳は「カサ」と訓じている。

なお京都白川家に伝来したと称する「丹後風土記」残欠は地名の由来について

<資料は省略されています>

と述べ、古くは「笠郡」と記し「宇気乃己保里」と訓じたという。「宇気」とは丹後にゆかりの深い豊宇気大神によるが、「笠」は「かさ」と訓じるので誤って「加佐」と記すようになったとする。もとより地名説話にすぎない。

〔原始〕

縄文時代の遺跡は三河そうご遺跡(前期)内宮ないくうめだいら遺跡、高津江たかつえの高津江遺跡、南有路みなみありじ高川原たかがわら遺跡、舞鶴市内では地頭じとう遺跡(前期―後期)和江わえ遺跡(前期―晩期)三日市みつかいち遺跡(中期)桑飼下くわがいしも遺跡(後期)岡田由里おかだゆり遺跡(後期)蒲江かまや遺跡(後期)など由良川流域に多い。前期は少なく、多くは中期―晩期に属するものである。

弥生時代の遺跡も由良川流域に多く、河口よりさかのぼる形で蒲江・和江・桑飼下・岡田由里・地頭・高津江などで発見されている。また郡内中央を南流するみや川流域の梅ヶ平や舞鶴市内の高野たかの川・伊佐津いさづ川流域にもある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報