栗本城跡(読み)くりもとじようあと

日本歴史地名大系 「栗本城跡」の解説

栗本城跡
くりもとじようあと

[現在地名]中村市具同

四万十しまんと(渡川)右岸高森たかもり(三三六メートル)尾根が南に延びた先端部、現在忠魂墓地のある上の山にある。城主は津島勘助・鳥谷源兵衛・土居宗三などといわれるが、時代や経緯については定かでない。渡川合戦のとき一条兼定が陣を敷いたところとされている。

天正三年(一五七五)中村奪回をめざす一条兼定は、伊予法花津ほけづ城主法花津氏や御荘越前守らの加勢を得て土佐に入り、「土佐には宿毛平田手洗の者共、入道殿よりの勢と聞きければ、防ぐ兵一人もなく、皆寄手に加はりければ、都合其勢三千五百余騎、具同村栗本に要害を構へ、四万十川には乱杭・逆茂木・石弓、ひつしと構へ、弓鉄炮を選びて三百騎、川の端に備へて待懸けたり」(土佐物語)と、長宗我部氏と四万十川を挟んで一戦を交じえ、敗北した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報