柿本寺跡(読み)かきのもとでらあと

日本歴史地名大系 「柿本寺跡」の解説

柿本寺跡
かきのもとでらあと

[現在地名]天理市櫟本町

和爾下わにした神社の境内に寺跡をとどめる。史料では延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳に「柿本寺田一町百廿歩 六条五里廿五坪四反、卅六坪五反、七里一反百廿歩」とあるのが早いが、奈良時代の古瓦を出土しているので、その創建は奈良時代にさかのぼると考えられる。「東大寺要録」によって東大寺の末寺であったことが知られる。寿永三年(一一八四)顕昭筆写の「柿本朝臣人麻呂勘文」には、柿本人麻呂の墓所について「清輔語云、下向大和国之時、彼国古老民云、添上郡石上寺傍有杜、称(治)道杜、其杜中有寺、称柿本寺、是人丸之堂也、其前田中有小塚、称人丸墓、其塚霊所而常鳴云々、清輔聞之、祝以行向之処、春道杜者、有鳥居、柿本寺者只有礎計、人丸墓者、四尺計之小塚也、無水而薄生、仍為後代建率都婆、其銘書柿本人丸墓、其裏書仏菩薩名号経教要文」などと記す。

柿本寺跡
かきもとじあと

[現在地名]鹿児島市平之町

しろ山南西端、新上しんかん橋付近に所在した。当寺門前の柿本寺通が、高見馬場たかみばばまで通っていた。能満山と号し、真言宗であった。本尊は虚空蔵菩薩。大乗だいじよう院末。開山の典雄は加世田日吉山王宮の別当寺柿本寺(現加世田市)住職であったが、島津家久が帰依し、西田にしだ窪田くぼたに典雄を移住させ、当寺を建立したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報