柴田敏雄(読み)しばたとしお

日本大百科全書(ニッポニカ) 「柴田敏雄」の意味・わかりやすい解説

柴田敏雄
しばたとしお
(1949― )

写真家。東京都生まれ。1968年(昭和43)に東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻に入学後、版画などの制作に取り組む。卒業後、同大学院を経て、75年よりベルギーのヘント市王立アカデミーに入学し、このころから本格的に写真を撮りはじめる。ヨーロッパ滞在中に撮りためた作品を携えて79年に帰国。同年、東京・新宿のニコンサロンで初の個展「冬のヨーロッパ」を開催し、注目された。88年にツァイトフォトサロンで開催した個展「日本点景――On the Spot」は、日本の山間部の各地に姿を見せている砂防ダムなどの造成地とその周りの自然景観を大型カメラで捉えたシリーズであった。このシリーズは、日本における新たな風景写真として注目され、翌89年(平成1)の「日本典型――Quintessence of Japan」、91年の「柴田敏雄・日本典型/解読の試み・展」により高い評価を受け、92年に木村伊兵衛写真賞を受賞した。同年、写真集『日本典型』も刊行された。87年より東京綜合写真専門学校、88年から91年まで筑波大学教鞭をとる。

 「日本典型」シリーズは、日本の豊かな自然とそこにくい込む開発の痕跡が形づくっている独自な風景を大型カメラで大胆かつ繊細に捉え、精緻なプリントで提示してみせた。このシリーズにより、柴田は日本の伝統的な自然風景写真とは隔絶した新たな風景表現の次元を示す作家として、国内のみならず海外でも高い評価を受ける。92年、ロッテルダムで開催された、新たな風景をテーマにした国際写真展「荒地――これからの風景」の出品作家に選ばれるなど、1990年代の日本の写真を代表する作家の一人として国際的な舞台で活躍した。

 「風景写真」は、1980年代から90年代にかけ、日本の写真のなかでも最も活性化した領域の一つであった。柴田のほか、小林のりお(1952― )、畠山直哉、伊奈英次(1957― )などの写真家たちが登場し、それまでの写真風景の概念に収まりきれないテーマや被写体の異質な要素を積極的に取り込みながら、日本における風景写真の革新を推し進めていったのである。この動向は、写真における風景観の変容という点で、1970年代にアメリカを中心に勃興したニュー・トポグラフィックスの傾向と共鳴する部分をもっていた。

 アメリカの評論家ジェームズ・エンニャートJames Enyeart(1943― )は、写真集『日本典型』に寄せた文章で、柴田の風景写真を、社会的ないしは政治的な風景への写真による美学的アプローチとして紹介している。これはニュー・トポグラフィックスの文脈に引き寄せた解釈であり、重要な視点ではあるが、柴田の作品の意義をこの点に集約してしまうことはその本質的な部分を見逃すことになる。柴田の作品は社会的な風景という側面をもっていながらも、根底には独自のダイナミックな造形感覚を描き出そうとする意志が貫かれているからである。柴田にとって、例えば、砂防ダムのもつ経済的な側面や実用的側面は本質的な問題ではない。むしろ同時代の自らを取り巻く環境に現れた不可思議な空間を、二次元の写真平面へと造形感覚によって変換することがより重要なのである。写真は、この変換作業のための装置でありメディアなのである。作品を見る側からいえば、その作品の力は、風景に対する既存のビジョンを解体し、変わりゆく環境世界を新たな仕方で受容し構成するための視覚的回路を開く点にあるといえる。

 柴田は1990年代末から、日本だけでなくアメリカにおけるダムサイトの撮影を始めるなど、新たな展開を見せている。

[深川雅文]

『『日本典型』(1992・朝日新聞社)』『Landscape (1996, Nazraeli Press, Berlin)』

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