柴崎村(読み)しばさきむら

日本歴史地名大系 「柴崎村」の解説

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]我孫子市柴崎台しばさきだい一―五丁目・青山台あおやまだい一丁目・同三―四丁目・いずみ天王台てんのうだい一―六丁目・柴崎・北新田きたしんでん

利根川右岸の台地上、我孫子村の北東に位置する。水戸道沿いに集落が営まれ、北西側は利根川の流作場。「本土寺過去帳」によれば中相馬なかそうまに属したことが知られ、永正二年(一五〇五)七月に没した柴埼八郎四郎妙伝、翌年六月に没した柴埼右馬五郎道中入道が記載される。城根じようねに連立複郭式の柴崎城跡があったという。当地には正和三年(一三一四)銘や明応九年(一五〇〇)銘の阿弥陀一尊板碑が残存する。寛永二年(一六二五)の旗本興津直重への知行宛行状に「葛飾郡柴崎・壱分・大山三ケ村之内百拾石」とある。天和二年(一六八二)の守谷領・小金領境出入裁許絵図(後藤家蔵)によれば、利根川が蛇行し、おお島・島・やなぎ島などの洲を形成し、当村をはじめ周辺諸村の農業・漁業・採草地として利用されていたが、守谷領野々井ののい村・いな(現茨城県取手市)は当村と青山村が大勢で大島おおしま沼へ入り魚猟をしていたとして幕府に出訴、魚猟場は周辺村々との入会利用という裁許となった。

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]立川市柴崎町一―六丁目・富士見町ふじみちよう一―七丁目・錦町にしきちよう一―六丁目・羽衣町はごろもちよう一―三丁目・曙町あけぼのちよう一―三丁目・緑町みどりちようなど

現立川市の南部にあたり、北は砂川すながわ村、東は青柳あおやぎ(現国立市)、南は多摩川を挟んで日野本郷、西は郷地ごうじ(現昭島市)に接する。江戸からの甲州道中はかつて青柳村との境の「貝殻坂」で多摩川を越え、日野宿に向かっていたが、化政期には完全に当村内に移っていた(風土記稿)。芝崎とも記され、戦国期には立河たちかわ郷に含まれていた。永禄三年(一五六〇)閏三月七日の立川重良判物(五十嵐文書)によると、重良が五十嵐市左衛門らの戦功を賞して「芝崎」の三〇貫文の地を宛行っている。しかし同判物には閏月や文言などに検討の余地がある。当村八幡宮(明治四〇年現諏訪神社に合祀)の本地仏であった銅造阿弥陀如来坐像(諏訪神社蔵)の銘に、天正一四年(一五八六)三月一五日の年紀とともに「武州多東郡立河郷芝崎村八幡本地 再興願主 立河照重内女お禰々」とみえ、この頃立河氏が当地で勢力を維持していたようである。

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]銚子市柴崎町

赤塚あかづか村の北東に位置し、利根川支流のさかい川と三宅みやけ川が流れる。村の中央を銚子道が通る。天正一九年(一五九一)一〇月九日の海上郡三崎庄堀之内枝柴崎之郷検地帳(松本家文書)によれば上田四町八反余・中田六町八反余・下田一四町九反余・下々田一町一反余で分米一八三石余、上畠六反余・中畠一町九反余・下畠一町五反余で分米五石余、麦畠は六反余で高一〇石余、名請人は四日市場よつかいちば松岸まつぎし垣根かきね高野たかの・三宅各村の入作がある。

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]高崎市柴崎町・中居町なかいまち一丁目

井野いの川とからす川との間に広がる沖積平野の中央に位置する。南は中里なかざと村・矢中やなか村。字天王前てんのうまえで条里制がうかがえる平安期の水田が検出された。群馬郡に属し、元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では下郷に村名がみえる(高崎藩領)。高九六五石余、田方六五町三反余・畑方二六町四反余。同藩領についての明治二年(一八六九)家数人数取調帳(小島文書)によると寛政六年(一七九四)の家数八六・人数三九八。

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]西会津町新郷豊洲しんごうとよす

橋立はしたて村の北、阿賀川右岸に位置し、対岸は河沼郡下野尻しものじり村・上野尻村。耶麻郡吉田組に属した。越後街道の脇道の一、じんみね峠越が通り、同道は当地で阿賀川を渡った。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に柴崎とみえ、高四三石余。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」では高九一石余、免八ツ七分。反別は田方一町四反余・畑方一五町二反余、家数二三(竈数三一)、男八九・女六六、馬一五(うち五調七)

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]調布市柴崎一―二丁目・八雲台やぐもだい一―二丁目・佐須町さずまち三―四丁目

金子かねこ村の西にあり、南を甲州道中が通る。北側を国分寺崖線が通るため北側が高く、南側が低い。南側を南東へ流れる川に堰一ヵ所が設けられ、甲州道中には大橋と小橋という名の石橋が架けられていた。大橋は(間橋)ともよばれ、小橋が国領こくりよう宿との境になっている。

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]深谷市上柴町西かみしばちようにし上柴町東かみしばちようひがし幡羅町はたらちよう

櫛挽くしびき台地の北東縁に位置し、東は東方ひがしがた村、西は榛沢はんざわ上野台うわのだい村、北は国済寺こくさいじ村。深谷領に所属(風土記稿)。深谷上杉氏家臣の柴崎淡路介が慶長(一五九六―一六一五)前に開発し(同書)、村名も開発者の名に由来するという。

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]神栖町芝崎しばさき

常陸利根川左岸にあり、東は萩原はぎわら村、西は荒沼あらぬま川を挟んで石神いしがみ村。芝崎村とも記す。応安(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)に「しはさきの津柴崎知行分」とあり、柴崎氏が統轄していた。天正一九年(一五九一)東義久知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「五百石五斗七升 たかはま・石かミ・柴崎」とある。

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]桜村柴崎

台地上に位置し、北は上野うえの村。江戸時代は旗本領で、正保(一六四四―四八)以後の新開といわれ(新編常陸国誌)元禄郷帳の村高は三〇八石余。幕末は堀田大五郎の知行地で、村高三四五・九九四石(各村旧高簿)。「新編常陸国誌」によれば、東・西二坪に分れていた。小田おだ街道脇に旧村社鹿島神社が鎮座する。

柴崎村
しばさきむら

[現在地名]新利根村柴崎

新利根川左岸の砂礫地にあり、北は伊佐津いさつ村。慶長一一年(一六〇六)三月三日の常州伊達氏領地知行目録(伊達家文書)に「八百弐拾六石弐斗六升 芝崎」とあり、仙台藩領であったが、のち天領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報