林部郷(読み)はやしごう

日本歴史地名大系 「林部郷」の解説

林部郷
はやしごう

和名抄」東急本は「林戸」につくり「波也之」、高山寺本は「林部」につくり「波夜之」と訓を付す。名博本も「林部」と記すが訓を欠く。山梨東郡の一つで、現東八代郡一宮町西半一帯が郷域であったと推定される。中世には「林辺」もしくは「林部」と書いて「はやしべ」とよび、近世には東原ひがしばら(現一宮町)の枝郷の一つとなった。現在は正式地名としては消滅しているが、東原の後地うしろじ付近を通称「へいしべ」といっている。

林部郷
はやしべごう

東原ひがしばら周辺に比定される。「和名抄」所載の山梨郡林部はやし郷の流れを汲む。長享三年(一四八九)一一月一八日の河村信貞寄進状(広厳院文書)に「林辺」とみえ、当地のうち百姓雨宮宮内右衛門尉の耕作する国分田三貫文が永代にわたって広厳こうごん院に寄進されている。元亀元年(一五七〇)武田信玄夫人の茶湯料として林部のうち石和いさわの屋敷分合計一八貫の地を円光えんこう(現甲府市)に寄進した(一二月一日「武田信玄判物」円光院文書)。天正一〇年(一五八二)一二月九日には徳川家康によって河西作右衛門尉に地内の八〇貫文と夫一人が本給として(「徳川家印判状写」譜牒余録)、埴原内匠助に一一貫二〇〇文が本給として(「徳川家印判状写」埴原文書)、同月一二日には志村又右衛門尉貞盈に助次郎分一〇貫文がそれぞれ安堵された(「徳川家印判状写」御庫本古文書纂)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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