国分寺跡(読み)こくぶんじあと

日本歴史地名大系 「国分寺跡」の解説

国分寺跡
こくぶんじあと

[現在地名]群馬町東国分・引間、前橋市元総社町

榛名はるな山の南東麓で、染谷そめや川と牛池うしいけ川に挟まれた洪積台地、標高一二八メートルに所在する上野国分僧寺跡。上野国分寺跡として国の史跡に指定。遺跡は東国分ひがしこくぶ村前むらまえ引間ひきま石堂いしどう・字妙見みようけん、前橋市元総社もとそうじや町字小見おみにまたがる。高燥な台地上に位置し、西に僧寺、東に尼寺が東西線上にそれぞれの南辺をそろえ、五四〇メートル(五町)を隔てて配置された。大正初年頃には僧寺跡の位置が知られており、尼寺の位置も大正末年に推定されるに至った。大正期の調査記録によると、僧寺跡は金堂跡に一〇個ほどの礎石(内陣礎石は三重の造出しがある)と土壇、塔跡に心礎と一四個の礎石および土壇があってそれぞれの建物規模は復原され、また、中門・南門・東門の地点に数個の礎石が確認されることや、道路と畑の区画に寺域の痕跡が残ることなどから、方二町の寺域規模も比較的明瞭に把握されていた。

国分寺跡
こくぶんじあと

[現在地名]下関市大字豊浦村

周防灘に沿って南北に延びる狭長なかめこう台地の西隅に近く、長門鋳銭所跡東方の地、標高約一〇メートルの段丘に長門国分寺が造営されていた。

神亀五年(七二八)聖武天皇は諸国に最勝王経を分ち、天平九年(七三七)に国ごとに釈迦一体を造らせ、同一三年諸国に勅して国分寺・国分尼寺を建立させた。しかし天平勝宝八年(七五六)にはすべてにわたっては完成されておらず、発願者である聖武天皇の忌日までに建立を終わるよう各国に督励が出され(続日本紀)、およそ三年後にすべてが完成したといわれる。

国分寺跡
こくぶんじあと

[現在地名]大和町大字尼寺字国分

北方約一キロの位置に山をひかえ、南は平地の水田が開けるという緩傾斜地に位置する。天平一三年(七四一)聖武天皇によって諸国に国分寺建立の詔勅が出され、造寺をすすめたが、肥前においていつ完成したかは明確でない。

現在、礎石の一部が残存し、瓦も多く出土し、寺域の東方約一五〇メートルの所から国分寺の瓦を焼いた瓦窯跡も発見されている。

国分寺跡
こくぶんじあと

[現在地名]熊本市出水一丁目・神水本町

肥後国分寺は現在の出水いずみ一丁目・神水本くわみずほん町にまたがり、二町四方の寺域をもっていた。現在の国分寺本堂下に講堂の西南端の礎石七つが残る。また熊野神社には塔の心礎が残るが、これは明治時代に動かされている。熊野神社より北西部の現在の国分寺の南側に塔跡が発見され、塔を取巻く回廊跡なども発見された。塔の東にあったと推定される金堂は未調査である。塔の北には講堂・僧房・小坊子が配置される。出土する瓦の様式からみて平安時代末期まで存続していたことは確実で、鎌倉時代初期まで瓦葺の建物が存続していた可能性もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報