松本新田(読み)まつもとしんでん

日本歴史地名大系 「松本新田」の解説

松本新田
まつもとしんでん

[現在地名]浦和市松本一―四丁目・曲本まがもと一丁目

内谷うちや村の北、荒川沖積低地に位置する。西部に荒川の堤がある。寛永一〇年(一六三三)の開発と伝え(郡村誌)、古くは鶴巻つるまき新田と称したが、元禄年中(一六八八―一七〇四)江戸浅草の松本小右衛門が同新田を預かったことがあり、そのとき松本村と改称したという(風土記稿)元禄郷帳に松本村とみえ高六三石余。江戸時代を通じて幕府領であったと考えられる(「風土記稿」・改革組合取調書など)

松本新田
まつもとしんでん

[現在地名]新居町浜名はまな

橋本はしもと村と松山まつやま新田村に挟まれた浜名川沿いに開かれた新田。両村から一字をとって村名としたといわれる。敷知ふち馬郡まごおり(現浜松市)の権十郎の開発によるもので、明和六年(一七六九)に新田として取立てられた(文政元年「松本新田百姓四名出所書上」東福寺文書)。旧高旧領取調帳に村名がみえ、高二一石余、三河国吉田藩領。開発後、権十郎の倅の喜作・作四郎・平吉・粂吉四人に高分けされ居住していたが、新居宿源太げんだ山に住む吉右衛門に売却されたことから、文政元年(一八一八)に土地所有をめぐって争論が生じた。

松本新田
まつもとしんでん

[現在地名]頸城村松本新田

保倉ほくら川北岸に位置し、東に下三分一しもさんぶいち村、西に上吉かみよし新田がある。東西松之山まつのやま(現東頸城郡松之山町)への道と南江みなみえ用水が走る。正保元年(一六四四)に開発のなったおおぶけ新田のうち。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報