松尾町(読み)まつおまち

日本歴史地名大系 「松尾町」の解説

松尾町
まつおまち

面積:三七・五九平方キロ

山武郡の中部に位置し、北から東にかけては芝山しばやま町・横芝よこしば町、南は成東なるとう町・蓮沼はすぬま村、西は山武町に接する。町域北部は両総台地の小丘陵が続き、南西部は九十九里浜平野が広がり、この境をJR総武本線・国道一二六号が通る。成東町境近くを木戸きど川が流れ、太平洋に注ぐ。猿尾さるお蕪木かぶらき地区などに縄文時代の貝塚が確認され、六世紀末の大堤権現塚おおつつみごんげんづか古墳蕪木古墳群がある。奈良時代の建立と伝える小川おがわ廃寺や九世紀初頭の創建という大宮おおみや神社があり、中世には千葉氏の支配下で蕪木氏が当地に拠点を置いたとされる。

松尾町
まつおちよう

[現在地名]東区糸屋いとや町一丁目

善安ぜんなん筋を挟んで南革屋みなみかわや町の東に延びる両側町。山城伏見ふしみから移った町で、当初糸屋町上糸屋かみいとや町と称した(初発言上候帳面写)。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図には「上糸や町」、同年水帳奥書写(安政三年「水帳」大阪大学蔵)には「糸屋町」とみえる。天和元年(一六八一)の水帳奥書写(同上)によれば、善安筋以東に入組んでいた南革屋町の三軒がこの年当町に加えられ、町名も松尾町と変更された。貞享四年(一六八七)の新撰増補大坂大絵図には「まつを丁」とみえる。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数三一・役数三九役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。

松尾町
まつおちよう

[現在地名]日野町松尾

上松尾町の西に続くほん町通にあり、日野松尾町の西半分を占める。日野三町のうちでも最西端に位置し、西側は上野田こうずけだ村。城下町形成時に松尾山まつおやま村の住人が移住して成立した町。城下町割では本町通九ヵ町のうちに町名がみえ、位置は同じ。正徳五年(一七一五)の三町絵図では西端北側角に高札場があり、中ほど北側に本誓ほんせい寺が描かれる。また本町通の北側を並行して走る小路の北に数軒の家がみえ、裏町とある。寛文五年(一六六五)頃には木地屋四軒があり(蛭谷氏子狩帳)、文久元年(一八六一)には中田武左衛門・守村利右衛門・丸屋源蔵などの商人が大当番仲間に加入。

松尾町
まつおまち

[現在地名]飯田市松尾町

堀端より西で、追手門より北寄りの東西に走る町筋。

松尾町一丁目はもとは伊勢いせ町とよばれた。坂西氏第四代兵庫頭の建保元年(一二一三)にできたといわれ、「飯田万年記」に「飯田町屋ノ始ハ、松尾町一丁目最初ナリ、坂西公四代目兵庫頭ノ時代ニ伊勢国ノ者来リテ始テ家ヲ建商売ヲ始此故ニ伊勢町ト呼ブ」とみえる。二丁目・三丁目は、慶長元年(一五九六)松尾城主小笠原信嶺が関東移封後、松尾城下の町家を引き移し、伊勢町を松尾町一丁目とし、その西に二丁目・三丁目を建て継いだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報