東福寺門前(読み)とうふくじもんぜん

日本歴史地名大系 「東福寺門前」の解説

東福寺門前
とうふくじもんぜん

[現在地名]東山区本町ほんまち〈十一丁目―二十二丁目〉・福稲ふくいね柿本かきもと町・上高松かみたかまつ町・川原かわら町・きしかみ町・御所ごしようち町・下高松しもたかまつ町・高原たかはら町〉

江戸時代、東福寺の門前に位置した村落の名称。紀伊郡に属す。北東は東福寺境内を介して愛宕おたぎ泉涌寺門前せんにゆうじもんぜんに接し、南は紀伊郡稲いなり村・深草ふかくさ(現伏見区)に続き、西は鴨川及び柳原やなぎはら村をもって区切り、北は柳原村及び大仏廻り諸町に連なる南北に長い区域。

平安時代末より近傍には蓮華王れんげおう院・法住ほうじゆう(殿)法性ほつしよう寺などの仏寺や離宮が造営された。その後、泉涌寺・東福寺の創建があいつぎ、中世初めにかけて白川しらかわ(現左京区)六波羅ろくはらとともに鴨東おうとうの中心地の一であったが、元弘・建武の争乱や応仁・文明の大乱の戦場となって荒廃、東福寺を除いて盛時の景観を失った。その結果、大半が東福寺の所領に帰し、江戸時代に至って東福寺門前及び東福寺外境内の称を生じた。「山州名跡志」は「上古ニハ橋(一之橋)ヨリ南方ハ如今無人家、街道ノ東西ハ田畠ニシテ、道ノ次頭ほとりニハ松柳等ノ双なみきアツテ、人家其間所々ニアリシト」と回顧し、「今人家ノ西方鴨川ノ畔ニ至ルニ、或二町或ハ三町ノ所アリ、是又一偏ニ河原ナリシト也」と記している。

当地域のほぼ中央を南北に本町通(伏見街道)が貫通する。古く法性寺大路ほつしようじおおじと称され、「太平記」巻八(三月十二日合戦事)に、「竹田川原ヲ上リテ、法性寺大路ヘ落モアリ」などとみえる。伏見に通ずる街道として知られたが、豊臣秀吉の伏見築城に伴い、京と伏見をつなぐ主要道路となって、賑いを増した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報