鴨川(読み)カモガワ

デジタル大辞泉 「鴨川」の意味・読み・例文・類語

かもがわ【鴨川】[千葉県の市]

千葉県南部の市。太平洋に面し、江戸時代初期から発展して近海漁業が盛ん。観光地・海水浴場。平成17年(2005)2月天津小湊あまつこみなと町と合併。人口3.6万(2010)。

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日本歴史地名大系 「鴨川」の解説

鴨川
かもがわ

京都市中きっての大川。源は雲ヶ畑くもがはた(現北区)で、桟敷ヶ嶽さじきがたけ貴船きぶね山の派流を合して南下し、上賀茂神社(現北区)の西寄りを東南に進んで、下鴨神社(現左京区)の南、出町でまち付近で高野川と合流した後、市中東部をまっすぐに南下し、九条付近で南西に向きを変えて斜流し、下鳥羽しもとば(現伏見区)付近で桂川と合して淀川に流入する。全長約二三キロ。

日本紀略」弘仁五年(八一四)六月一九日条は「鴨川」と書き、同書天長六年(八二九)一二月二四日条及び「山城国風土記」逸文は「賀茂川」と記す。また東河(「三代実録」貞観二年九月一五日条ほか)とも記した。現在は高野川との合流点までを賀茂川、それより以南を鴨川と書くのが通例である。

鴨川の水量は平常は少ないが、時に大量の降雨があり、しばしば大洪水を引起こした。「平家物語」巻一(願立)の記す白河院の言葉、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」は有名だが、諸書にも洪水の記録が記される。例えば「貞信公記」天慶元年(九三八)六月二〇日条に「鴨河水入京中、多損人屋舎雑物、西堀川以西如此、不往還」とあり、「日本紀略」永祚元年(九八九)八月一三日条には暴風雨の記事を記した後「又鴨河堤所々流損」と伝えている。このため天長元年(八二四)朝廷では防鴨河使ぼうかしを設置して、新堤の造築にあたらせるなど、堤防管理を行った(「同八年一二月九日付太政官符」類聚三代格)防鴨河使は貞観三年(八六一)三月一三日一時停廃され(「同日付太政官符」類聚三代格)、山城国司の所管となっているが、その後再び復活している。

防鴨河使による水防対策は徹底したもののようで、「三代実録」貞観一三年(八七一)閏八月一四日条に、

<資料は省略されています>

とあり、堤防周辺では公田を除く水陸田の耕営を禁止している。

鴨川
かもがわ

東条とうじよう川の支流鴨川流域、現社町上鴨川・下鴨川一帯に比定される鎌倉時代からの地名。鴨河とも記される。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に「鴨河、東ハ □タケノツシヒライ(シ)サルノヲ、西ハホトケタニ(仏谷)ノ小谷河、北ハチカラ□ヨタ□□エノツシヲサカウ」「ウマキノハ ス□□ヨリハコイシヲサカウカモカハノ一色」とある。摂津国住吉社の神領であったが、神領内に清水きよみず寺が存在したため鴨川でも両者の支配が錯綜し、当地と清水寺の縁は深かった。永徳二年(一三八二)と推定される六月二一日の散位某書状(清水寺文書、以下断りのない限り同文書)は、清水寺塔婆上棟の引馬三疋の料足を「鴨川神用段銭」として催促している。

鴨川
かもがわ

荒川の支流の一。桶川市鴨川付近の谷頭を水源とし、上尾市・大宮市の西部を南流、大宮市水判土みずはた地先で古荒川を合せ、浦和市西部を南下して同市と戸田市境で荒川本流に合流する。流路延長約二一キロ。一級河川。古荒川合流点付近は自然堤防がよく発達し、古くからの集落も多い。とくに大宮市三橋みはしそば谷戸やと古墳群は鴨川流域の開発の古さを示す。天候により流量の変化が激しく、流域の村々はしばしば水害・干害に悩まされた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「鴨川」の意味・わかりやすい解説

鴨川[市] (かもがわ)

千葉県南部,外房にある市。2005年2月旧鴨川市と天津小湊(あまつこみなと)町が合体して成立した。人口3万5766(2010)。

鴨川市東部の旧町。旧安房郡所属。1955年天津町と小湊町が合体。人口7672(2000)。太平洋に面し,海岸まで房総丘陵がせまって平地が少ない。日蓮の出生地として知られる小湊は,1276年(建治2)に誕生寺が建立されて,その門前町として発展した。現在は旅館や民宿が多く,南房総の中心的観光地の一つになっている。鯛ノ浦と呼ばれる小湊湾には特別天然記念物の〈鯛の浦のタイ生息地〉があり,観光船が運航されている。天津は近世初期に紀州の漁民が開発したと伝える漁師町で,江戸時代は東廻海運の避難港であり,1929年の房総東線(現,JR外房線)の開通までは周辺地域の米,炭などの移出港でもあった。沿岸漁業の不振から60年代に入って漁業従事者は大幅に減少し,工業開発が進められた千葉・市原地区への出稼ぎや土木作業への転業が行われた。現在は養殖漁業に力が注がれ,干物やワカメなどの水産加工は観光みやげとなっている。町北部の清澄山には常緑広葉樹の原生林が残されており,山頂には日蓮が得度した清澄寺がある。1960年代から人口減少が続き,過疎地域に指定されている。
執筆者:

鴨川市中西部の旧市。1971年鴨川,長狭(ながさ),江見の3町が合体,市制。人口2万9981(2000)。鎌倉時代に伊勢外宮領の東条御厨(みくりや)に属した地域で,戦国時代に里見氏が開き江戸時代に幕府の馬牧となった嶺岡牧の中心地でもあった。また江戸初期から漁業が盛んで今も県下有数の漁港である。内陸の長狭地区は加茂川中流の米作・酪農地帯である。鴨川地区は商業・観光の中心地で,市街は浜堤の上にあり,南に漁村の磯村やサバ,ブリ,イワシの水揚げが多い漁港がある。北は東条海岸の松林であったが,現在は水族館の鴨川シーワールドや多くの観光ホテルが林立する。中央部は外房に広がる商圏をもつ商店街と南房総最大の旅館街で,鴨川駅はJR内房線と外房線の接続点であり,駅前は外房観光のバスセンターとなっている。海岸は無霜地帯で草花の露地栽培や温室による高級花の栽培が増加し,太海(ふとみ)にフラワーセンターもある。沿岸は嶺岡山地の末端が島々となって鴨川松島の別名があり,源頼朝の伝説を伝える仁右衛門島に続く。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鴨川」の意味・わかりやすい解説

鴨川
かもがわ

京都市北西部、丹波(たんば)高地の桟敷(さじき)ヶ岳(896メートル)に源を発し、南流して淀(よど)川に注ぐ川。北区上賀茂(かみかも)付近で京都盆地に流れ出て、流路を南南東に転じ、出町(でまち)で高野(たかの)川と合流し、市街東部を北から南に貫流して、伏見(ふしみ)区横大路付近で桂(かつら)川と合して淀川に注ぐ。延長約35キロメートル。出町以北の上流部を賀茂川、出町以南を鴨川とよぶ。鴨川はもとは上賀茂付近から南流し、現在の堀川筋(すじ)が旧流路であったが、平安京遷都(794)の際、都の東辺に流路を変更したという。そのためしばしば氾濫(はんらん)して被害を与え、824年(天長1)に防鴨河使(ぼうかし)が置かれた。その後、豊臣(とよとみ)秀吉が新堤を造築し、出水もようやく減じたが、1935年(昭和10)の集中豪雨により橋梁(きょうりょう)の大半が流失するなどの大被害が生じ、1936年から護岸の大改修事業が行われた。平時は水量が少ないので、1614年(慶長19)には角倉了以(すみのくらりょうい)によって高瀬(たかせ)川、1894年(明治27)には琵琶湖疎水(びわこそすい)が鴨川と並行して開削され、米、薪炭(しんたん)などの輸送に用いられた。鴨川の河原は古来しばしば合戦場となり、平安時代以降近世初頭にかけて五条、六条、七条の河原では罪人などの処刑が行われた。近世初頭からは能、芝居興行の場となり、三条、四条の河原には芝居小屋や見せ物小屋が並んだ。

 鴨川の水は友禅染めの水洗いに適しており、かつては友禅流しが行なわれた。三条大橋から五条大橋にかけての河岸には旅館、料亭などが集まり、夏には河原に川床(かわどこ)が設けられ、夕涼み客でにぎわう。

織田武雄


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鴨川」の意味・わかりやすい解説

鴨川
かもがわ

京都市を北から南へ流れる川。淀川水系の一部。長さ約 30km。山城と丹波の国境にある桟敷ヶ岳を水源とし,盆地へ出たのち南東へ流れ,高野川と合流してからは京都市街地の東部を南流し,下鳥羽で桂川と合流する。高野川合流点から上流を賀茂川,下流を鴨川と書く。平安時代までは,盆地へ出てからまっすぐに南へ流れ,現在の堀川付近を流れていた。川の水は 1960年代まで友禅染の水洗いに利用。三条,四条,五条などの大橋も歴史が古く,詩歌にも詠まれ,古くから京都市民の憩いの場所として親しまれている。

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