東洋紡績[株] (とうようぼうせき)
日本の繊維産業の名門企業。綿,羊毛の天然繊維からポリエステルなどの合成繊維,さらに最近では非繊維部門を拡大している総合的メーカーである。本社大阪市北区。前身は1882年創業の大阪紡績(株)で,1914年渋沢栄一の斡旋により,同社と三重紡績(株)(1880設立)が合併し,東洋紡績(株)が設立された。1931年には当時の五大紡績会社の一つ大阪合同紡績(株)(1900設立)を合併,名実ともに世界最大の紡績会社となった。第2次大戦により同社は85%の設備を失い,また戦後の財閥解体により,過度経済力集中排除法,制限会社の指定を受けるなど大きな危機にさらされた。しかし1949年あたりから規制が徐々に解除されるとともに,再建計画が進められた。61年の原綿,原毛の輸入自由化,64年のいわゆる〈繊維新法〉の実施等の環境変化のもとで,同社は合繊部門の拡充,非繊維部門への進出に努めた。そして70年代に入ってからはアパレル・メーカーとの提携を強め,ファッション産業分野にも積極的に展開,近年は電子部品材料,医薬等への多角化を進めている。非繊維部門ではフィルムの売上げが大きく,そのほか生化学,分離膜,電子材料などを拡大強化しつつある。売上構成は繊維44%,化成品36%,バイオ・メディカル・機能材12%など(2005年3月期)。資本金433億円(2005年9月),売上高3937億円(2005年3月期)。
執筆者:中山 裕登
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の東洋紡績の言及
【大阪紡績会社】より
…日本最初の大規模紡績会社で,[東洋紡績]株式会社の前身。綿製品輸入防遏(ぼうあつ)を企図する[渋沢栄一]の主唱により,華族を中心に政商,綿関係商人を加えて1882年5月に創立された(資本金25万円)。…
【化学繊維】より
…ところで,この間における国産技術の向上は糸質の向上,製造コストの低下をもたらし,レーヨン糸の用途を女物帯地から交織物へと広げ,他方1921年以来進められていた関税改正作業のもとで,レーヨン糸輸入関税の従価3割水準への引上げが予想された。26年から28年にかけて,大日本紡績(後のニチボー),三井物産,倉敷紡績,[東洋紡績]の4社がレーヨン工業に参入して,それぞれ日本レイヨン,東洋レーヨン(現,[東レ]),倉敷絹織(現,クラレ),昭和レーヨンという子会社を設立した。このうち大日本紡,三井物産,東洋紡の3社は,ドイツのレーヨン・コンサルタントであるオスカー・コーホン社に機械据付け,運転の指導と技術者のあっせんをそれぞれ依頼し,倉紡はフランスのランポーズ式技術を,技術者の現場での実習と機械購入を通じて導入した。…
【合併】より
…第2次大戦後の合併のなかで大きな関心を集めたのは,1965‐70年前後の大型合併である。1964年の三菱三重工の合併(三菱重工業が発足),大阪商船と三井船舶の合併(対等合併で大阪商船三井船舶が発足),65年の神戸製鋼所と尼崎製鉄の合併(神戸製鋼所が存続),66年の東洋紡績と呉羽紡績の合併(東洋紡績が存続),67年の日産自動車とプリンス自動車の合併(日産自動車が存続),70年の八幡製鉄と富士製鉄の合併(対等合併で[新日本製鉄]が発足)などである。とくに八幡,富士の二大製鉄所の合併は,1968年4月の両社の合併の決意表明以降,実業界や通産省の賛成論と経済学者の反対論が激しく対立し,活発な議論が行われた。…
【繊維工業】より
…しかしこうした政府の育成策は必ずしも十分な効果をあげるに至らなかった。綿紡績業が本格的成長期に入るのは,82年に渋沢栄一が中心になって大阪紡績([東洋紡績]の前身)を設立してからである。大阪紡績は錘数1万0500錘で,動力源として蒸気機関を導入するなど大規模,近代的なものであり,当初から好業績を記録し,規模を拡大していった。…
※「東洋紡績」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」