東光寺跡(読み)とうこうじあと

日本歴史地名大系 「東光寺跡」の解説

東光寺跡
とうこうじあと

[現在地名]多良木町黒肥地 東光寺

鍋城の西光なべじようのさいこう寺に対し、その東方に東光寺があった。現在の中村久夫氏屋敷が東光寺跡で、寺跡てらあととかぼうとよばれる。すぐそばに薬師堂が残存し、これが東光寺の一祠堂である。愛宕山と号し、真言宗本尊薬師如来。建立・廃寺年代ともに不明。

寛元元年(一二四三)一二月二三日の関東下知状(相良家文書)に「多良木内 古多良 竹脇 伊久佐上 東光寺以上四箇村事」とあり、東光寺がすでに村名としてみえる。「嗣誠独集覧」に「文応三年黒肥地東光寺を上相良弥五郎頼氏草創」とあるが、これは再興の誤りであろう。

東光寺跡
とうこうじあと

現在の鎌倉宮(大塔宮)が鎮座する所にあったとみられる。臨済宗、医王山と号する。関東十刹の一つ。本尊・開山・創建年次などは未詳。「攬勝考」は二階堂行光永福ようふく寺の傍らに一寺を創建し、承元三年(一二〇九)一〇月、明王院僧正公胤を導師として供養を行ったのが東光寺であろうとする。「風土記稿」は建久四年(一一九三)一一月、源頼朝が永福寺傍らに建てた薬師堂を当寺の前身と推定しているが、この堂は永福寺伽藍の一部とみられる。

東光寺跡
とうこうじあと

[現在地名]高松市番町一丁目

現在の法泉ほうせん寺の寺地にあった。臨済宗で京都妙心寺末、瑞明山と号した。寺伝によれば、もと陽明山龍雲りよううん寺と称し、天正年間(一五七三―九二)土豪十河存保が建立し菩提寺としたが、生駒親正によって一時丸亀城下に移された後、高松城下法泉寺の塔頭としてその東向いに移った。寛文九年(一六六九)の「御領分中寺々由来」の高松法泉寺の条に「寺中、龍雲院、長興庵二軒有之事」とあり龍雲院とよばれたことが知られる。松平氏時代になって、初代頼重の法号龍雲院殿英公にふれるとして寺号を東光寺と改めた。元禄元年(一六八八)堂宇を改修したが、天保一一年(一八四〇)一月焼失、嘉永年間(一八四八―五四)再興した。

東光寺跡
とうこうじあと

[現在地名]桜井市大字谷

てら川西方の小丘上にあった寺。山号は磐余山。一名桜井さくらい寺。現在は大師堂のみを残し、本尊大日如来のほか空海坐像・役行者像などを安置。寺伝によれば崇峻天皇の頃に創建され、七堂伽藍も完備したが、織田信長により焼かれたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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