木岐浦(読み)ききうら

日本歴史地名大系 「木岐浦」の解説

木岐浦
ききうら

[現在地名]由岐町木岐

田井たい村の西に位置し、東は海に臨む。北部に入江があり、南部の阿瀬比あせびノ鼻の沖に大辰巳おおたつみ島・小辰巳島・おきノ碆などの島々が浮ぶ。土佐街道筋で(「阿波国行程図」国立史料館蔵)、浜方方面の道に山座さんざ峠がある。浦方と村方があったが、史料上は一括された場合がある。中世日輪之ひわの庄のうちとしてみえる。地内の「木岐城」に桑野(木岐)大膳大夫正持が在城していたが(「三好家成立記」、「阿州古戦記」徴古雑抄)、天正一〇年(一五八二)頃に落城したと伝える(古城諸将記・城跡記)。慶長三年(一五九八)「木岐之延命寺」が居屋敷廻の高五石を寄進されている(「蜂須賀家政判物」徴古雑抄)。慶長年間のものと推定される国絵図に「きゝ」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「木岐村」とあり、また地内と考えられる「大井村」が記載される。寛永一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図では「木岐浦」とみえ、地内の「白浜村」が記される。正保国絵図では木岐村として高二六七石余とあり、木岐のうちとして大井おおい村・白浜しらはま村・田井村が記される。承応四年(一六五五)の木岐浦検地帳(民政資料)では田数三町五反余・分米二四石余、畠数二反余・分米一石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では木岐浦として田方二一七石余・畠方四九石余、芝山・小生山の注記がある。また枝村として木岐田井村・大井村・白浜村が記される。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では「木伎村」とみえ、高三九七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報