有木村(読み)あるぎむら

日本歴史地名大系 「有木村」の解説

有木村
あるぎむら

[現在地名]豊松村有木

下豊松しもとよまつ村・中平なかだいら村・笹尾ささお村の東に位置、東は備中国川上かわかみ(現岡山県)に接する。それぞれ一連の高原および河谷で通じているが、北は成羽なりわ川の峡谷小野おの(現油木町)と隔てられる。谷が深いため小野とは古くより交流はなかったと考えられる。

地名の由来について「西備名区」は、吉備津きびつ(現芦品郡新市町)の別当(祠官)有鬼(有木)氏が備中より来住し、旧称中山なかやまを有鬼(有木)に改めた、あるいは当地は古来吉備津宮の神領であったため宮内みやうち(現新市町)に住む有木氏の支配下に置かれ、有木に改称されたという。また備中下道しもみち山田やまだ(現岡山県総社市)鬼身きのみ城に有鬼冠者という強者がいたが、吉備津彦命の将巨智磨呂命が征伐、巨智磨呂は有鬼の姓を授けられ吉備津宮の神主棟梁となったが(備中府志)、巨智磨呂の居館が備後・備中国境の日野ひの(六六九メートル)にあったといい、その山麓である当地を有鬼(有木)とよぶようになったとも伝える。

有木村
あらきむら

[現在地名]西郷町有木

大光寺だいこうじ村の北方に位置し、有木川が流れる。永禄八年(一五六五)五月六日の尼子勝久判物(笠置家文書)に「隠州之内荒木」とみえ、疋田左近丞抱分であった同所を笠置与三左衛門尉に与えている。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一六一石余・一三町六反余、畑三六石余・二〇町四反余、ほかに新田畑一五石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)二五匁・絞油五升役一〇匁・核苧一貫五〇目役二匁八分・牛皮二枚役丁銀五匁・茶八袋役一匁二分、漆一升一合役は米九斗七升余で代納している。

有木村
ありきむら

[現在地名]大野原町五郷有木ごごうありき

内野々うちのの村の南方雲辺寺うんぺんじ山南西の山間集落が展開する。寛永国絵図ではひめ郷に属し、「在木」とみえる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では在(有)木村として高三一石、同一八年の小物成は綿三二匁・炭一四石(一ヵ月一石一斗六升六合宛)・茶代銀子一匁(山崎領小物成帳)。宝暦一一年(一七六一)の反別四町七反余、高二六石余(朱印高一六石余)、新田・新畑の高合計は三石八斗余。耕地造成は盛んでなく潰れ田畑がかなりあったものか、寛永末期に比べても村高は減少している。

有木村
ありきむら

[現在地名]市原市海士有木あまありき

海士あま村の南東にあり、江戸時代は海士村一村扱いの場合がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一〇一石。寛永三年(一六二六)五月の知行宛行状では有木村一〇一石余が旗本永井領となっている。正保国絵図でも同高で、幕末まで変わらない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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