有安村(読み)ありやすむら

日本歴史地名大系 「有安村」の解説

有安村
ありやすむら

[現在地名]郷ノ浦町有安触ありやすふれ

長嶺ながみね村の西に位置し、深い入江(半城湾)に臨む。沖に島がある。地内のみや山に鎮座する東風こち大明神(現爾自神社)を「延喜式」神名帳に記される石田いしだ郡一二座の一つ「爾自ニジノ神社」に比定する説がある(「一宮巡詣記」「壱岐神社誌」など)。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)では聖母しようも大明神(現勝本町)の社領九四町のうちとして有安村とみえる。

有安村
ありやすむら

[現在地名]庄内町有安

庄内河内中央部に位置し、北は仁保にほ村、西は柏森かやのもり(現飯塚市)など。正応四年(一二九一)一〇月日付宇都宮薩摩守給知覚(宇都宮文書/鎌倉遺文二三)に「筑前国ありい・ありやす五十町」とみえる。小早川時代の指出前之帳では有安村の田三二町九反余(分米三八三石余)・畠五町余(分大豆一六石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高六七七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高七二五石余、人数二四〇(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。

有安村
ありやすむら

[現在地名]綾部市睦寄むつより町 有安

上林かんばやし川の両岸山麓にある。東は川原かわら村、南は草壁くさかべ村、西は鳥垣とりがき村・山内やまうち村に続き、北は君尾きみのお山の山稜で隔てて畑口はたぐち谷の諸村と接する。若狭街道と京都への街道の分岐点にあたる。

中世上林庄の地。地名は天文年間(一五三二―五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「有安」とみえるのが早い。「蔭涼軒日録」文明一六年(一四八四)九月一四日条以下に「上林上村吉忠番」の記事が頻出するが、これは当村内の市場いちば山内村との境界付近のことであろうとされる。

有安村
ありやすむら

[現在地名]甲佐町有安

東は中横田なかよこた村、南は大町おおまち村、北は下横辺田しもよこべた村に接し、西は緑川を挟んで船津ふなつ村に対する。延元二年(一三三七)五月一八日、宇治惟時が甲佐社に寄進した「御内郷」の除分として「寒野、有安、津々良村」があり(「宇治惟時寄進状写」阿蘇家文書)、この有安は当村に比定される。当初は緑川の左岸で船津村近辺に所在したが、加藤清正の緑川改修後、右岸に移住したと伝える(甲佐町史)

有安村
ありやすむら

[現在地名]吉川町有安

古市ふるいち村の東に位置し、美嚢みの川と支流北谷きただに川の合流点左岸に立地する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は吉谷きつたに村に同じ。正保郷帳では田方一九四石余・畑方二〇石余。天保郷帳では高二五三石余。

有安村
ありやすむら

[現在地名]椎田町有安

石堂いしどう村の東、角田すだ川河口部左岸に位置し、周防灘に臨む。中世は角田庄に含まれたとみられ、同庄鎮守角田八幡社(現豊前市)の祭礼に奉仕した九村のうちであった(太宰管内志)正保国絵図に村名がみえ、高二〇〇石余。郷村高帳では高二七九石余、うち新田高一〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報