早尾村(読み)はやおむら

日本歴史地名大系 「早尾村」の解説

早尾村
はやおむら

[現在地名]宮原町早尾

東部は竜峰りゆうほう山系油谷あぶらたに山の森林帯で、南種山みなみたねやま(現東陽村)につながる。中部は宮原花崗岩の丘陵地帯で、油谷川が川に、山口やまぐち川が西の平野部に流れる。西部の平野部は上有佐かみありさ村に接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に田方四九二石九斗余・畠方一〇六石九斗余とある。種山手永に属し、近世後期手永会所が置かれていた。「国誌」に「今宮村腹巻田村中原村坊屋敷村今寺村山口村川久保村川上村等ノ小村アリ」と記される。修験野田成亮の「日本九峰修行日記」文化九年(一八一二)一〇月二一日の記事に「釈迦院と云ふに登る、熊本往還の内早尾と云村より種山と云在所を通る、此所より奈須の五家と云ふに行く道あり」とある。

早尾村
はやおむら

[現在地名]立田村早尾

早尾輪中の主邑で、東は佐屋さや川を隔てて津島五ヶ所新田(現佐織町)、西は塩田しおた(現八開村)に接し、木曾川佐屋川に挟まれた大村。「徇行記」によれば、概高二千七一六石のうち一千二〇八石余は藩士一六人の給知。田は五八町九畝余、畑は三六町四反七畝余。「寛文覚書」に戸数二一五、人数一千二一二とある。「徇行記」は「木曾川西堤傍ニアリ、サシテ大戸ハナク、大体家並ソロヒタル所ニテ村立ヨシ、地ハマツチ沙交リ也、前田面・船原田面・北田面地高クシテマヅハ水損少シナリ、支邑井下野ハ川西ニアリ此アタリハ卑湿ノ地水損アリ、細民共ハ見取所ヘ家ヲ徙シ二、三十戸ホトモアリ」とし、一向宗の常徳じようとく寺を記す。

早尾村
はやおむら

[現在地名]利根町早尾

大平だいへい村の西に所在。江戸時代の領主変遷は大平村に同じ。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本松平上野介の知行地で村高二八六・七六二石。天明三年(一七八三)には当村の富吉が江戸神楽坂の行元寺前で父の敵を討った事件があり、「神鏡大平敵討早尾鷹」という読物となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報